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2012/01/24 10:04
二人の間で問題になっているのは国史の曲筆ということである。水戸の『大日本史』でも、天武天皇の子の舎人親王主宰のの編集になる『日本書紀』が、天武の反逆を隠すために筆を曲げたという考え方をし、大友皇子を天皇として扱ったことは有名で、白石は澹泊の史論によりその考えを確認した。神功皇后の時代の忍熊皇子が義母の神功皇后に対し反乱を企てたという伝説が記紀に出てくるが、これについてはここで大友皇子と並べる意味が今一つわからない。いずれにせよ国史に書き残された諸事件も、勝者の側に有利なように後から書き変えたり、または事実を隠したりして、「片口」になっている、つまりかたよっていることが多い、という考えを白石はさらに詳しく展開する。主として承久の乱を材料に、歴史の歪曲を述べてゆくのが以下の論である。 |
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2012/01/22 06:32
ところで、水戸藩の彰考館から白石の歴史著述に応援しようとの提案があったという話は、全集所載の澹泊宛書簡には出てこない。だが、白石が『史疑』述作の途中で澹泊に、歴史上の「三大疑」として、@仲哀崩後の事、A仁徳即位の事、3天智崩後の事、を質問したことが、「新安手簡」末尾の付録「澹泊与白石書」の中に見える。澹泊は自分の白石宛書簡の写しを取らせておいたらしく、その一部がこういう形で全集に収録されているわけである。@は国史に記す仲哀崩御後の神功皇后の事蹟や年数に疑問の多いこと、Aは不詳だが、3はいわゆる大友皇子の皇位抹殺と天武天皇の陰謀についての史実を問題にしている。大友天王即位説は『大日本史』の論点の一つであり、光圀が直接指示したものだった。 |
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2012/01/13 23:02
注目すべきは、『史疑』に「去年」からとりかかって、去冬初めまでに神代巻まで終わったと述べていることで、しかもその意図や研究方法についてもある程度具体的な記述があるから、失われた『史疑』の内容を推測する重要な手がかりを与えてくれる。白石にとって、歴史の学問は「今日政事の用にもなり候やうのもの」であるべきだという信念はかわらなかっただろうが、政治から引退してからはひたすら目立つことを避け、著作も同時代ではなく「百年も二百年も後の人々の公論に身を任せ候より外これなく候」と、後世に期待するようになった。自分の学問が政治の実際に活用される可能性があった家宣・家継両将軍の時代があっけなく終ってしまった今では、後世の「公論」が唯一の基準でなければならない。ここにはしかし白石の学問が公共性を獲得する契機も生まれていることを見るべきだろう。 |
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2012/01/12 06:30
「異朝の事、聖学の事などは異朝の書にあり余る事にて候。本朝にはむかしの実事をも考校し、今日政事の用の心得にもなり候やうのものとては一部もなく候口惜しき。本朝の学文と存じ候よりこヽろざしも候へども、右の仕合大かた事も成就しまじき事と存じ候。それも今少し手びろく人をもあつめ候て仕りかたもこれあるべく候へども、其段は老朽このみ候はぬ事に候。 |
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2012/01/09 16:03
次には、この夏頃から『史疑』にとりかかって、着々と古代史の基本史料の批判的検討が進められていたことが記される。 |
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2012/01/08 12:04
次の二条は、依頼した絵のこと、詩書についての質疑などで、特記すべき内容はないため省略する。その次の非常に長い一条は、古代史や制度史関係の自著の意図と、保存状況を、洞巌の質問に答えて記す趣旨である。内容が三つに分かれるので、区切って紹介したい。 |
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2012/01/07 17:46
次の条には自家の現状を述べる文章が続く。 |
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2012/01/07 10:36
「去冬十一日の御副書、委曲薫誦し候。逐条御答申述候。 |
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2012/01/04 15:22
(三十一)享保九年前半―――『史疑』など古代史の述作その他 |
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2012/01/01 12:34
末尾の一条では、娘の婚礼に際して洞巌に小幅の絵を描いてほしいと頼み、また明卿のために唐絵の楼閣図を所望している。その構図を細かく指定した部分はきわめて具体的で、白石の画幅に対する造詣が一通りのものではなかったことを示す。 |
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2011/12/26 12:51
次の条には、伊達騒動の時に時の大老酒井雅樂頭忠清の屋敷で、事情聴取の中途に原田甲斐が伊達安芸宗重に突然斬りかかった、例の有名な事件のことが出てくる。 |
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2011/12/23 21:26
次の条では江戸から国元へ帰った高橋玉斎への挨拶の外、玉斎の洞巌への江戸の状況報告を予想して、火事と放火取締のことなどに触れている。 |
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2011/12/22 14:55
「しかるうちに八月廿六日に、賎息伝蔵方にて男子出生し候。長女方に外孫は候へども、なにとぞ寒門相続のために男孫はほしき事に存じ候処に、まづは丈夫に候よし医師衆も申され候事にて、逐日人らしく孩笑(乳飲み子の笑い)なども仕り出し、内外両孫に目前を慰し候へども、手ごり仕り候上の事、それもたのみなきやうの心得にて日を送り候。 |
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2011/12/21 07:19
白石から佐久間洞巌のもとへは八月末以来三か月ほど便りをしなかったらしい。十一月末近くにようやく出した書簡を見ると、何といっても子息の死がよほどこたえて、健康をかなり害した様子である。最初の一条が長いので、適宜切りながら紹介する。 |
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2011/12/19 13:22
全集本にある次の一条は省略して、その次の少し長い一条を取り上げたい。これについては荒川研究が、末尾の6行のみを享保八年のものとし、他は内容から前年のものの混入だとした。しかし、原本の臨写による可能性が高い翠軒自筆本では、やはりこの条全部が一続きとして扱われている。 |
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2011/12/17 11:34
澹泊宛十一月十九日の肩書のある書簡も同じ年のものだ。「停雲集」続編の編纂希望のことを語った前の書簡を受けて、澹泊が詩草一巻を送ってきたらしく、それについてまず次のような所懐を述べている。 |
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2011/12/15 15:27
ところで、全集本には十月十二日の肩書のついた澹泊宛書簡の一部が載っている。これについて、荒川研究は享保七年、つまり前年のものと比定したが、どうもそうではなく前と同じく享保八年のものではないかと思われる。 |
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2011/12/15 11:41
次にこれも同一書簡の一条だが、『停雲集』続編編集の志を述べた項目がある。 |
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2011/12/14 16:28
次にこの年の中秋の様子を述べる以下の条も、同じ書簡の一部と思われる。 |
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2011/12/12 21:45
さて享保八年八月九日から十日にかけて、東北と北関東地方を大雨と洪水が襲って大被害を出した。前掲の八月廿八日付の佐久間洞巌宛書簡にはただ「東関の大水」とだけ書いてあって、具体的にどんな様子だったか判断できないが、澹泊宛の書簡などで見ると、これは広域的な災害と思われる。 |
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