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近世史私説
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江戸時代の人物史に焦点をあててブログをつくっていきたいと思っています。さしあたり新井白石の晩年の書簡の年次順の並べ直しと、そこからの白石の境涯の見直しをしてみます。私人としての姿がどこまで辿れるでしょうか。
ただし、白石書簡の紹介は長くつづくので、途中で田沼時代や享保改革についてなど、私説を時々はさみます。仮説や飛躍もまじるでしょうが、暇つぶしに読んでもらえればと思います。
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白石晩年の書簡 447

2012/01/24 10:04
 二人の間で問題になっているのは国史の曲筆ということである。水戸の『大日本史』でも、天武天皇の子の舎人親王主宰のの編集になる『日本書紀』が、天武の反逆を隠すために筆を曲げたという考え方をし、大友皇子を天皇として扱ったことは有名で、白石は澹泊の史論によりその考えを確認した。神功皇后の時代の忍熊皇子が義母の神功皇后に対し反乱を企てたという伝説が記紀に出てくるが、これについてはここで大友皇子と並べる意味が今一つわからない。いずれにせよ国史に書き残された諸事件も、勝者の側に有利なように後から書き変えたり、または事実を隠したりして、「片口」になっている、つまりかたよっていることが多い、という考えを白石はさらに詳しく展開する。主として承久の乱を材料に、歴史の歪曲を述べてゆくのが以下の論である。
 「近くは承久の乱の事、武士にて申伝へ候は、鳥羽、亀菊(白拍子で後鳥羽上皇の愛妾)に所領を下され候事、叡慮(土御門天皇の気持)に叶ひ候はぬ故に、義時をうたるべしとの御事のよし申し伝へ候。これも三天子(後鳥羽、順徳、土御門)一日に巡狩(実際には配流)の事にて、あとは武家のまヽになり候へば、片口のみにて申したき事をのみ申し伝へたると見え候。関東へ押松(後鳥羽上皇側から鎌倉への使者)下り候事露見し候よりして、義時事の外に事を急がれ、東国の武士なに事といふわきまへもなく夜を日に継ぎ上り候やうに、誠に疾雷耳を掩はざるやうにいたされ、殊に鎌倉にて軍僉議(いくさせんぎ)の時、義時は一言も出されず、二位尼(頼朝の妻政子)のはからひのやうに候事など、その跡を以て推し候に、必ず必ず後鳥羽の勅旨いはゆる有名の軍にこれあり候故、其事を深く忌み隠し候事と見え候事情を以てはかり候にも、彼時(かのとき)に当りてたとひなき事なりとも義時が罪になるべく候事にて、勅旨に仰せたてらるべく候事に候。さなくしては東国の武士左袒(さたん)仕るべくやうもなきが故に候か。然るを況や義時の事におゐては其罪を数へられ候て候はむには、一日も一日も罪をのがれ候事はあるまじく候。後鳥羽何を御憚り候て、其罪を数へらるまじく候か。それ故に東にては二位殿(政子)を主にたて候、義時は引き退き居られ候事にはあるまじく候か。これらのごときも右に申す勝ち得候方のおもふさまに事のあとにて申置きたるやうに存ぜられ候。」
 すでに白石は『読史余論』でも、この乱の事の起りを、上皇の寵童の父仁科盛遠に対する処罰と、上皇の愛妾亀菊と地頭との争いでの地頭の保護、という二つの件での義時に対する上皇の怒りに求めた『承久記』の説明を否定し、後鳥羽上皇が鎌倉の政権を打倒する意思を早くから固めていたとして、偶発ではなく根の深い対立だったと指摘している。その上で後鳥羽上皇については、「天下の君たらせ給ふべき器にあらず、ともに徳政を語るべからず。」と手厳しく批判しているのである。一方、北条義時のことは、同書の別の場所に「本朝第一等の小人、義時にしくはなし。」と断じ、承久の乱後の朝廷への処置と、頼朝の一族をことごとく誅殺したことを糾弾した。「東鑑(吾妻鏡)の記せし所信ずべからず」とまで言っている。こうした是非の論には朱子学の名分論の価値観がつよく投影しているのはもちろんだが、一面で歴史書の批判的な読み方の必要を自覚的に提起していることは、学問としての歴史学への先進的な一歩として注目すべきことである。
 
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白石晩年の書簡 446

2012/01/22 06:32
 ところで、水戸藩の彰考館から白石の歴史著述に応援しようとの提案があったという話は、全集所載の澹泊宛書簡には出てこない。だが、白石が『史疑』述作の途中で澹泊に、歴史上の「三大疑」として、@仲哀崩後の事、A仁徳即位の事、3天智崩後の事、を質問したことが、「新安手簡」末尾の付録「澹泊与白石書」の中に見える。澹泊は自分の白石宛書簡の写しを取らせておいたらしく、その一部がこういう形で全集に収録されているわけである。@は国史に記す仲哀崩御後の神功皇后の事蹟や年数に疑問の多いこと、Aは不詳だが、3はいわゆる大友皇子の皇位抹殺と天武天皇の陰謀についての史実を問題にしている。大友天王即位説は『大日本史』の論点の一つであり、光圀が直接指示したものだった。
 これらについての回答に代えて、澹泊は自己の編述に成る史論を筆写させて白石に送ったのだが、その時に神功皇后に関する論は長いので手間がかかるとして省いた。それを改めて送ってもらい、白石が返礼の意味で書いたのが次の一条である。年次は不詳だが、享保八年の夏から秋にかけての頃だろう。なお、澹泊の史論は、光圀の意を受けて彼が編述したもののうち、仲哀から壬申功臣までの八篇だったというが、『大日本史』の『論賛』はこの時すでに完成しているから、これらはその一部である可能性が高い。
 「一 神功后の事、今度御写し下され、これにて事は決し候やうに、幸甚の至に御座候。春秋(古代中国の史書)の法(筆法)を見候にも、国悪(国の悪事)の事は微婉(びえん 控えめで遠回し)の不でのごとくに相見え候。其国にありては大夫の賢者をだにそしり候はぬと申し候に、ましてそれより上の事に候へば、吻(くち)を容るべきやうはこれなき事、只々国史のまヽにて事は済み候はむ事勿論に候。但し訟を聴き候も片口ばかりにては事の理非は決しがたき事にて、両造(原告被告の両方)の言も候はゞ、いかにも心の及び候はんほどは承届け候て、さて其上に決はこれあるべき事か。
 此の如くに某存じ候事も、是非は天下の公に候はんなれども、右申し候片口ばかりを取用ひ候はゞ、勝ち得候人のかたの事あとにて憚る所なく申し候を、真実の事と心得候て、是は非となり、非は是となり候事もこれあるべく候か。たとへば忍(仲哀天皇の皇子)も大友皇子などのごとき、反逆の名を千の後までまぬがれ給ふ事なく候は、いかにしても残多くもいたしき事にも存じ奉り候。」
 長いのでいったんここで切ることにするが、内容はこの後へつながっている。
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白石晩年の書簡 445

2012/01/13 23:02
 注目すべきは、『史疑』に「去年」からとりかかって、去冬初めまでに神代巻まで終わったと述べていることで、しかもその意図や研究方法についてもある程度具体的な記述があるから、失われた『史疑』の内容を推測する重要な手がかりを与えてくれる。白石にとって、歴史の学問は「今日政事の用にもなり候やうのもの」であるべきだという信念はかわらなかっただろうが、政治から引退してからはひたすら目立つことを避け、著作も同時代ではなく「百年も二百年も後の人々の公論に身を任せ候より外これなく候」と、後世に期待するようになった。自分の学問が政治の実際に活用される可能性があった家宣・家継両将軍の時代があっけなく終ってしまった今では、後世の「公論」が唯一の基準でなければならない。ここにはしかし白石の学問が公共性を獲得する契機も生まれていることを見るべきだろう。
 それにしても、現在の白石はなるべく田舎の老人とみられるように心がけていて、かつての自分が、本朝では天下の主に近く仕え、外国の才学を謳われる人々と対等に応対した人間だとはいささかも見えないようにしているという、屈折した言葉の裏に覗く自負心は哀しいほどだ。「わかき時よりの名誉ふつふつとあきはて候。ただただ此上は百千年後のためのみに候。」という言葉に表現された、時代より早く生まれ過ぎた知性の孤立は、江戸の世にまだいくらも例はあるが、この苦い自意識の表象の仕方は彼独特のものであろう。
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白石晩年の書簡 444

2012/01/12 06:30
 「異朝の事、聖学の事などは異朝の書にあり余る事にて候。本朝にはむかしの実事をも考校し、今日政事の用の心得にもなり候やうのものとては一部もなく候口惜しき。本朝の学文と存じ候よりこヽろざしも候へども、右の仕合大かた事成就しまじき事と存じ候。それも今少し手びろく人をもあつめ候て仕りかたもこれあるべく候へども、其段は老朽このみ候はぬ事に候。
 去年中も水戸より加勢をかけ候て、老朽なにとぞ仕り候へとの事の子細も候へども、あなた御ためにも此方ためにもわろく候とて、申しやぶり候ひき。惣じて老朽世にあしざまに申しなされ候はむ、実事は一事も有るまじく候。前々代(家宣)の御時、諸大名より始め候て、町人等はなをなを、日夜に逢ひたく候事の、他のみたく候事の、と申し候へども、わらづと(藁包)一つ門柱に入り候事もなく候。これによりて近年巳来老朽をあしざまに申しなしたがり候衆も、此事は申す事はなく候か。老朽ひゐきにてよくなり候、老朽口によりあしくなり候など申す人は一人もあるまじく候。七八年来種々に申したがられ候へども、未だこれこそと申す一事もなきと聞え候。ただただ身の分限よりは年高く自慢らしき男、いかさま底意地わるくこれあり候かなど、しかられ候と承り候。畢竟人の気のつかずしられぬ事を知り候と、文詩の人々のしかられ候やうの仕損じなく候がにくきとの事と見え候。
 然らば世の習ひにて学材名誉もあれかしとと望む事にこれあり候に、老朽は夢ほどの学文候と名誉の清朝・朝鮮・琉球・阿蘭陀などへ聞え候て、亘理来り候ものものヽいかゞが無事に候かなどたづね候が身の禍なりたるにて候へば、老朽こそ候へ、子孫のためによからぬ事に候故に、ただただなにとぞ名のなくなり候やうになくなり候やうにと心がけ候に、もはや七八年に及び候へば、此頃はしかり候人もうすくなり候と申し候。これらの事故に著述述作のもの等世に出候事事をば深く嫌ひ諱(い)み候事にに候。とかく死し候以後百年も二百年も後の人々の公論に身を任せ候より外これなく候。此の事申入れ候も無用の事に候へども、もはや多年御心安くこれあり候に、いな(異な)事にて著述のものなど秘し候と御不審も候はんと存じ候故に此の如くに候。
 当時の世人の□□(不明)への応酬の躰は与右衛門殿(高橋玉斎)へなんとなしによくよく御聞き成さるべく候。なにもなき田舎翁と御覧じ居られ候はんと存じ候。中々本朝にて天下の主に近侍し、堂上に立まじはり、異朝にて才学候人々とヽりくみ候やうのものども御覧じ及ばれまじきと存じ候。むかしはなにとか君子の人の威儀容貌のやうにと、ならぬ迄もたしなみ候。当時はなにとぞなにもしらぬ老人に見え候へかしとたしなみ候。わかき時よりの名誉はふつふつとあきはて候。ただただ此上は百千年後のためのみに候へば、いな事を底滞し候と思召し下されまじく候。以上。」【全集第五 515頁】
 まず、白石の歴史研究の著述の進行を知った水戸の史館では、澹泊の斡旋で白石に「加勢」、つまり協力しようと提案があったのを、『大日本史』編纂のような集団作業を好まなかった彼は、双方のためによくないとして断った旨を述べているのに注意しておこう。日本の史書のみを貴重なものとして外国の史料は顧みないい水戸の史館と、中国や朝鮮の史書を参考にしなければ古代の研究はできないと考える白石との間には、根本的な方針の違いがあったのである。
 次に、現在の境遇と著作の秘匿について述べる部分が続くが、洞巌にはよほど気を許しているせいか、謙遜の言葉の中にもひそかな自恃の念が自然に表れて、かつてその倨傲ぶりを譜代派から批判された白石の人間像がおのずと浮かんでくるような興味深い文章だ。政治の中心にいた頃、諸大名から町人にいたるまで、白石の家の門をたたいて取り入ろうとした様子を述べ、その中で疑惑を受けるようなことは一切せず、そのためえこひいきや不正の非難だけは今も免れていることを自慢してもいる。
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白石晩年の書簡 443

2012/01/09 16:03
 次には、この夏頃から『史疑』にとりかかって、着々と古代史の基本史料の批判的検討が進められていたことが記される。
 「手前の用のものなど(子息や甥たちの要望に応えて述作した『孫武兵法択』を指すか?)なにか大形は心懸りのもの事済み候故に、去年よりは史疑と題し候て、本朝の国史共に疑しき事共候を、或は弁じ、或は問を設け候やうの致し方にてとりかヽり候て、去冬初までに、日本紀にては神代巻上下の分、旧事記・古事記などの諸説異同を論弁し候ところ、三巻に出来候。これはかろき事はすて、重き事ばかりを挙げ候て、しるし候。右三巻のうち一巻は旧事・古事・日本紀、並びに六部国史の総論にて、神代巻の疑難はたゞ二巻にて終り候。是にて古史通の全部ゆきかたも済むべく候。惣じて此の如く
 草本は一々楷字にいたし候ては、老朽手一つにてはかゆき候はぬ故に、行書になぐりすて、朱にて句読ををばいたし候迄に候。これにより日本流の字ばかり見つけられ(見馴れ)候人は読みがたくこれあるべく候に付、史疑は一巻づつも出来次第土肥源四に隙々に楷書にうつしとめくれ候へと約し候。これも高倉やしきの講など申す無用の事に隙を妨げられ、さやうの事はかゆきかね候尤の事に候。
 むかしは老朽手前によく楷真を書し候衆貮人も候て、御用をも難なく済し候へ共、今は手前に一人もこれなく、二男にて候ものにようやく真を書き習はせ、よほど用にたち候に早世し、老朽手一つにてさてさてはかのゆかぬ事に候。右申し候神代事済み、人皇の代にかヽり候に至りて氣色むづかしく、今にとりかヽらず候。せめて当年中も余生候て左様の事にかヽり候ほどの精力も出来候はゞ、日本紀にしるされ候程の事は大かた事済み候はんか。それ迄の事けふこの頃の気力にてははかりがたく候。
 水戸にて出来候本朝史(『大日本史』)などは定めて国史の訛を御正し候事とこそ頼もしく存じ候に、水戸史館衆(澹泊を指す)と往来(文通)し候て見候へば、むかしの事は日本紀、続日本紀等に打任せられ候躰に候。それにては中々本朝の実事はふつとすまぬ事と僻見に候やらむ、老朽などは存じ候。本朝にこそ書もすくなく候へども、後漢書以来異朝の書に本朝の事しるし候事共、いかにもいかにも実事多く候。それをばこなたに不吟味にて、けく(結局)異朝の書の懸聞之訛と申しやぶり、又は三韓は四百余年本朝の外藩に。それに見え候事にもよき見合候をも右のごとくにやぶりすて候て、本朝国史々々とのみ申す事に候。まづは本朝の始末大かた夢中に夢を説き候やうの事に候。老朽史疑せめて日本紀に見え候時代迄の事済み候ても、よほど実録の心得にはなるべく候かと存じ候へども、成否は点に任せ候より外になく候。わかき時はそれらの志候ても事足らず、中年は公用に暇なく、老後の今に至り候て、身も静になり候へば精神衰へ、さてさておもふやうにもなき事のみに候。」
 まずこの写本のここの部分には、虫損かどうかはわからないが大きな欠損ができていてそこは照合不可能なので、全集本のままになっていることをお断りしておく。それと、この写本の筆記者が原本に忠実な用字に随ってはいない疑いが濃いので、「昔」と「むかし」とか、「責て」と「せめて」、「難斗」と「はかりがたく」などの異同がある場合には、白石が仮名書きをしたのをそのまま全集本が写した可能性が強いとみて、そのままにした。
 ところで、これまでかなり筆写清書を次男宜卿の協力に頼っていたのが、その死去によって難儀をするようになり、弟子の土肥霞州が約束してくれても吉宗の命による高倉屋敷での講学などで多忙になって、結局誰にも頼めないようになった事情を訴えている。注意すべきはこの講学を「無用の事」と言い捨てていることで、吉宗の学問の政治利用の意図を白石が斜めに見ていて、まったく評価していなかったことを示す。

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白石晩年の書簡 442

2012/01/08 12:04
 次の二条は、依頼した絵のこと、詩書についての質疑などで、特記すべき内容はないため省略する。その次の非常に長い一条は、古代史や制度史関係の自著の意図と、保存状況を、洞巌の質問に答えて記す趣旨である。内容が三つに分かれるので、区切って紹介したい。
 「一 老朽述作のものヽ事御尋ねに候。むかし巳来見聞に及び候ほどの事、、世に類例も候事と、漢のものはいかほどもいかほども世に名賢もある事にて、其書もすくなからず候か。少しく書をも渉猟し候甲斐には、なにとぞ本朝の事、古今の人々手をも下されず候事どもをとりあつめ置き候はゞ、本朝に生れ候恩を報じ候ためと存じ候て、なにかと撰述し候。撰述をもし候上は、又なにとぞ世にも残り候へかしと存じ候事も勿論に候。さりながら当時は世に憚り候事共候故に、いつも申入れ候ごとく、外人の目に触れ候はぬ様に心懸け候事に候。類書もなく候て当地のごとき祝融之災(火災)しげく候所にさし置き候事心もとなく候へば、それら(仙台を指す)のごとき遠国には一分も残し置きたき事ももとより望なきに非ず候。其内御聞及び候子細候て、加賀の文庫へ三四部御写し取られ納められ候。水戸の文庫へも一部は写取られ納められ候て、今一部申来り候もの候。により借し進じ候やうにも仕るべく候か。しからばまづ両国(加賀と水戸)に四五部は老朽著述のは残り申すべく候か。
 古史通の事は畢竟よのつねの人のいらぬものに候。又事により人の驚き怪しむべきものに候。本朝神代の由来、手近く知れ候ものにこれあり候故に、いやがり候衆もあるべく候事に候。但し此一部は加州へうつしとられ候ひき。
経世典例はいづかたに遺り候ても苦しからぬものかと存じ候。紙数追ってかぞへさせ申し進むべく候。十二冊かこれあり候様に覚え候。方策合編、これは慰み半分のものにて候。ありてもなくてもの物に候。」
 まず述作の動機として、中国にはすぐれた書物も多いが、日本の古い時代のことはまだ手が付けられていない部分が多いので、自分がまとめておこうと思ったものであることを述べ、撰述をした以上は後世に残すことも考えたものの、世を憚る身となって、なるべく他人の目に触れないようにしなければならず、これまでは加賀の文庫(尊経閣文庫)と水戸の文庫(彰考館文庫)に収めたものがあるだけだという。火災の心配の少ない仙台へ一部残したい気持ちはあるとも述べている。
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白石晩年の書簡 441

2012/01/07 17:46
 次の条には自家の現状を述べる文章が続く。
「一 孫男出生、娘婚嫁等の事、委曲仰せを蒙り候。了孫いかにも無事に候。当時此辺疱瘡行はれ候て、又これら一層の気遣を久しくて設け候。娘事はさきさまも残る所なくいかにもいかにもにぎやかに歳をも迎へ候て、まづ彼是目前を慰申し候。
 其許御娘子御孫の御事承知し候。なによりの事に候。御老後の御たのしみさっし、殊に娘子御易産の事は、一入御あやかりものと存じ候。とかくいづれにも市郎殿御成立(成長)迄の事をなにか御心養生候て、目出度く御覧じ立られ候にしくべからず候。
 老朽などは右申すごとくに男婚女嫁事済み候此上存命候もよく候。また無事に終り候もよく候。なり次第と存じ候て日を送り候迄にこれあるべく候。当時の氣色の如くにては兼て存じ候よりは書物など取たて候事も先相やめ罷在り候躰、是非に及ばず候。
 子どもたちの結婚のことも親の責任を果たしたので、いつ死んでもいい心境で、あとはなり行き次第だという。健康のすぐれないための気の弱りも感じられる部分である。
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白石晩年の書簡 440

2012/01/07 10:36
 「去冬十一日の御副書、委曲薫誦し候。逐条御答申述候。
一 去年中下され候草根いかにもたしかに相達し候。即時に庭際に植申し候。さだめて春来発芽と相待ち候。此御謝申し入れ候心得にて、其儀に能はず候と相見へ、疎漫之至愁愧に堪へず候。
一 其地冬中暖に御座候。又々寒申すべきかのよし承知し候。此方はの外に寒く候。私宅之事大形無人之境界、人気も薄く候故に、寒も一入に候かとは存じ候へ共、いかさま寒候事常年には勝候か。宅中に井二つこれあり候処に、いづれもひしと水枯れ候て、朝夕の用に事を闕き候。地中の水泉凍り候故と見へ候。此事は江戸筋も同じことと申し候へば、これにて去冬の冱寒(凍りつくような寒さ)は察せられ候かと存じ候事に候。雪降り出し候て後に雪水にて井泉も少しく用を足し候ほどに罷成りこれらの事に候か。
 十一月の半過より老朽寒に襲はれ候やうにて、今に今にとかく気宇一日も快く覚え候事もこれなく候て、先に御申入れ候ごとく牙歯痛み候て動き、慮外ながら両脚に力なく、をして(押して)歩行し候と、すくみ候て動きがたく、ただただせめてと存じ候は食味ぬけず候と、むかし持病に疝瀉これあり候と、此二つはなに事なく候迄に候。中々元日などの出仕は罷成るまじきと覚悟候ひき。常の不参と違ひ、元日に出仕候はぬは目にもたち、其上名代の使者にて御太刀献上など申す事、事むづかしく候て気の毒に(困ったことだと)存じ候所に、ようやく元日の出仕は勤め候。四日に権門への参賀も仕廻(済ませ)、当時は(今は)引籠り和暖を待居り申し候。ことに此様子にては余生の程すまぬものに存じ候。
 歯の事申入れ候に付、青胡桃霜並びにゆふけむ薬の包紙まで下され、いかにもゆふけん乳香散は承及び候へ共、慥かなる古音存ぜず候処に、委曲承知御状相達し、翌日人を以て一貼とらせ用ひ候。いかにもいかにも痛など即時に退き候。いまだ動き候事はすきとなく候。逐日薬験もこれあるべくと御心入故に右の仕合、御礼申尽しがたく候。胡桃霜なをいまだ日々服用仕るべくと、忝き次第に候。」
 例年より寒い冬で白石の体調もかなり芳しくなかった様子がうかがえる。ただ、壮年期に彼を苦しめた味覚異常と下痢腹痛という二つの持病は出ていなかったのがせめてもの救いだった。元日の登城と年始の儀礼への出席は旗本の重要な義務で、出席できないと目立つし、代理人では太刀献上などの行事がうまく運べないなど心配したが、何とか勤めを果たすことができた。なお、青胡桃霜とかゆふけん薬などの漢方薬についてはよくわからない。
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白石晩年の書簡 439

2012/01/04 15:22
       (三十一)享保九年前半―――『史疑』など古代史の述作その他

 享保九年(1724)の正月上旬に書かれたと思われる手紙が二通あって、全集では二日付のものが後におかれているが、こちらは佐久間洞巌の実家の家系を詳しく白石に知らせてきた手紙に対する返書だから、その内容は略す。ただ、その末尾の記述から、新井の家系や東国の新田氏の流れについて書いた白石の書簡が、洞巌宛に前年の秋か冬に出されていたらしいことがわかるが、それは今日伝わっていない。
 もう一通の同九年正月と推定できる洞巌宛の日付のない書簡は、二日付書簡よりは後に書かれたものだが、この原本は現在の仙台市博所蔵の巻子本の中にはなく、その首巻の目次の次に「堀田正敦君へ進呈壱軸之写」として写本が収められている。
 堀田正敦は仙台藩主伊達宗村の八男で、後に堀田家へ養子に入り、近江堅田藩主、のち転封で下野佐野藩主になった人物。幕府の若年寄として松平定信の寛政改革の実行に大きな功績があったほかに、文化人の側面では鳥類の図鑑『観文禽譜』の著があり、また、『寛政重修諸家譜』編纂の総裁を務めた。
 「新佐手簡」の工藤鞏卿の序文に堀田正敦と「新佐手簡」のかかわりが述べられているので、改めてその部分を見ておこう。(原漢文)
「白石源君美の仙台源義和(佐久間洞巌)に与ふる所の国字手簡七十二通及び詩文各二篇、義和の孫義路蔵する所なり。戊午之歳、堅田侯(堅田藩主)義路に命じて尽くこれを上げしめ、又工藤鞏卿、菅原季愿に命じて謄写せしむ。」【全集第五 417頁】
 これによると戊午の歳、すなわち寛政十年(1798)に、佐久間洞巌の孫が所蔵していた白石書簡の藩への献上を命じたのは、当時幼少の仙台藩主伊達周宗(ちかむね)の後見役を頼まれていた近江堅田藩一万石の領主堀田正敦だったことがわかる。寛政二年からすでに若年寄に就任していた堀田は、多忙の合間を縫って実家の伊達家にも出入りし、その頃北辺の防衛や貿易問題が幕政の重要事項となり、『采覧異言』『西洋紀聞』などの白石の先進的な対外認識に関心が寄せられ、それにつれて「新佐手簡」の存在が意識されたのだろう。ただし、正敦は書簡の編集を命じたついでに、白石の手跡を自ら所有したいと考えて、軸装させたものをわがものとしたわけである。
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白石晩年の書簡 438

2012/01/01 12:34
 末尾の一条では、娘の婚礼に際して洞巌に小幅の絵を描いてほしいと頼み、また明卿のために唐絵の楼閣図を所望している。その構図を細かく指定した部分はきわめて具体的で、白石の画幅に対する造詣が一通りのものではなかったことを示す。
 「一 此たび存じ出し、とくより(早くから)心つき候はゞと存じ候事一件候ひき。娘にとらせこし候(持たせてやった)掛軸、あねをこし候(姉を嫁にやった)時にに似合しきものどもをばとらせこし候故に、此たびは三幅対は候へども小床にもかけ候小幅のものに似合しきなく候て、探幽(狩野探幽)の蟹の絵の大きさはよきほどのもの候をくれ候へども、女の絵にはすまぬものとてわらひ候へども、外に似合しきなきが故に候ひき。とくより心づき候はゞ御たのみ申すべきものをと申したる事に候。来春にもなり、もしもし御心もむかひ候やうの興(きょう)も候はゞ、二人のむすめにかた見ながらにとらせたく候。絵は此方のこのみなく候。いかにも小幅にて、なにぞ和歌の心かなどさだめて絵はいかほども御胸中にこれあるべく候条、御心がけ下さるべく候。
 又外にたてもの(縦物)になりとも、又は横物になりとも、地どりの思召次第に一幅、これは息男伝蔵へめでたくとらせ孫迄伝へ候やうに仕りたく候。絵様は唐様の楼門に楼上に額これあり候(割注:額字は不老門)楼下の両に聯をかけ候躰にて、かたかたには裡春秋斎、かたかたには中日月遅の字の見え候所を成され候て、門中のかたかたは春の気色、かたかたは秋の気色にて、横雲などにて隔て候て、殿閣のやね見え候て、長生殿の額の見え候やうにし候て、その左右に日と月とを対し候一幅を多年の望に候。もっとも額字をも共に御筆にて成され下さるべく候。
 以前住吉家へ頼み候て三幅対にし、中には門にて額字天漪(高玄岱)書かれ候ひき。左右は春山秋山にて、春に日秋に月にて候ひき。のがれがたき事にて或人の壽の時につかはして今はこれなく候。当時は(現在は)与右衛門殿(高橋玉斎)御覧のごとくなるありさまに罷在り候へば、三幅対かけ候床はもち申さず候。これによりむかしより持来り候三幅対・大横物の類は暑時に虫を払ひ候迄の事、是非に及ばず候。就中(なかんずく)唐玄宗御製孝経序の四幅ものなどは高さ一丈余も候も持ち候へども、これは虫ぼしにも家のうちにかけ候はん所今はなく候。これによりいかにも小しきなる床にかヽり候ほどの御つもりにと願ひ奉り候。
 但し此方も覚えこれある事候、興これなく候てはならぬものに候条、もしさやうの御佳興も候時の御事、必ずと御心にかけられ御心がかりになり候やうの事は迷惑に候。書画花草などの旧事の好みも今は皆々夢にて、誠の田舎翁になりはて候。一笑々々。恐惶謹言。
 十一月廿七日            新井筑後守  君美花押
佐久間洞巌様
      貴報」【全集第五 512頁】
 白石は娘や息子への一種の形見分けとしてこれらの書画を与えることを考えたのだが、彼がいかに洞巌の書画における力量を高く評価していたかがわかるのである。以前に住吉家へ頼んだとあるのは、幕府の政務に預っている頃に、朝鮮通信使関係で屏風などを作成するために住吉派二代目の住吉具慶とはたびたび会っていたので、ついでに自家用の三幅対を注文したのであろう。
なお、本ブログ414でのべたように、洞巌宛書簡の仙台市博蔵の原本(巻子本)にはこれより前の数通の書簡が欠落しているが、この十一月廿七日付書簡からはまた原本があるので、訂正部分を朱記してある。
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白石晩年の書簡 437

2011/12/26 12:51
 次の条には、伊達騒動の時に時の大老酒井雅樂頭忠清の屋敷で、事情聴取の中途に原田甲斐が伊達安芸宗重に突然斬りかかった、例の有名な事件のことが出てくる。
 「一 弾正殿(伊達村泰)も御不幸の事候よし、きのどくに候。御対話も候はゞよろしく頼み奉り候。故芸州(伊達安芸宗重)御事御申し下され。老むかし堀田筑州(正俊)の家へつかへ候時に、彼(かの)御事候。座席は日々に見候ひき。これは雅楽殿(酒井忠清)やしき筑州へ下され候によりての事に候。十七間を三間にかして、玄間の上の間に九尺の内縁候て、書院へ入り候所の隅の柱に芸州は倚られ居られ候を、むかふさまにぬきうちにせられ候。その刀の鋒(ほこ)の柱に入り候て、後々迄筋かへに深き所の深さ二寸ばかりきり入れ候痕の柱に候ひき。其やしきも当御代の火にやけうせ候。なにもかも終には夢になる事に候。わづかばかりの世に身をゐれ候とて、世のためにも人のためにもよからぬことをし候人の心のうちはいかにこしらへ候ものにやと、測り難き事のみに候。」
 伊達村泰の家に何着あの不幸があって、洞巌からの書面でそれを知った白石が、書き添えられてあった村泰の血縁につながる伊達安芸のことに関連して、自分が若い頃に一時堀田正俊に仕えていた時に、刃傷事件の現場となった酒井忠清の拝領屋敷を、綱吉時代に大老を勤めた堀田正俊が受け継いでいたので、柱の傷痕まで自分で見たという回想をしている。
 その後堀田正俊はまた恨みを買って江戸城内で稲葉石見守正休(まさやす)に惨殺されたため、白石は浪人することになった。「世のためにも人のためにもよからぬことをし候人」というのが直接には原田甲斐を指すことはもちろんだが、稲葉石見守もそれにダブっていたはずである。「なにもかも終には夢」とは、数々のドラマを見てきた人間のまことに印象深い言葉ではないだろうか。
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白石晩年の書簡 436

2011/12/23 21:26
 次の条では江戸から国元へ帰った高橋玉斎への挨拶の外、玉斎の洞巌への江戸の状況報告を予想して、火事と放火取締のことなどに触れている。
 「一 与右衛門殿(高橋玉斎)御帰り候後に書中(玉斎への手紙)にても進じたきものに候へども、右の仕合にて其儀に及ばず候。御参会之節よろしく頼み奉り候。当地老朽草屋のありさまなど委細に聞召さるべく候御事に候。御察しのごとく火事々々と申し候事を遠く承り候一事の益の候はんか。めづらしき所に膝を容れ候事に候。去頃の火事は藩邸(仙台藩邸)あやうき御事と承り候に、よく御防ぎとめられ候など申沙汰候。日々に火あぶり仰付けられ候て、火つけのものは根をぬき葉を枯され候はんなど申し候へども、とかくに火事はやみかね候。きのどく(残念)に存じ候。」
 玉斎から自家の様子を詳しく聞いてもらっている通り、市街地からは遠くて、火事が頻発しても話に聞くだけで済むのは一つの利点だ、と自嘲をこめて語る。幕府当局はこの頃放火による被害に手を焼いたらしく、『徳川実記』でも放火犯人の密告を奨励する考察が何度も出されたことが記録されている。【有徳院殿御実記享保七年十一月二日の条、同八年三月条など】
 「一 壽言の裱(ひょう 表装)なされ下されさてさてしほらしき紙にて感じ入り候。九月十三日夕の御興の事仰せ下され、健羨の至に候。」
 この書簡の 冒頭に書いてあったように、九月十四日の洞巌からの返書に添えて、内孫誕生の祝いの言葉を洞巌が書き、それを軸物に仕立てたものが送られてきていた。すでに帰国した高橋玉斎を通じて白石家の模様を九月初旬に知っていたからである。なお、その手紙に、前日の九月十三夜の月見の事が書かれていたので、白石は自宅でのまことに寂しい月見と比べて羨んでいる。
 このあと、八月末に白石から洞巌の幼息市郎に書いてやった添書に対する謝礼の書帖と中字の書を見て、感想を書いている。
 「一 市郎殿より書付進じ候ものへ御謝帖下され、並びに御かき候中字も落手、とりどり見事なるなる事にて、珍重の至に候。またまた書中をもって御礼等も申入れたく候へども、右申し候事共に障られ、其儀に能はず候。恐れ乍らよろしく頼存し奉り候。」
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白石晩年の書簡 435

2011/12/22 14:55
 「しかるうちに八月廿六日に、賎息伝蔵方にて男子出生し候。長女方に外孫は候へども、なにとぞ寒門相続のために男孫はほしき事に存じ候処、まづは丈夫に候よし医師衆も申され候事にて、逐日人らしく孩笑(乳飲み子の笑い)なども仕り出し、内外両孫に目前を慰し候へども、手ごり仕り候上の事、それもたのみなきやうの心得にて日を送り候。
 右男孫出生とて家内取込居り候処へもとのなじみの衆入来り、季女の婚約の事を申し出され候。さき(むこうの家)の事はかねても承伝し候所にて、当所の居所よりはようやく十町のうちにて、禄も某につりあひ候ほどの事、家がらも御譜第(譜代)の歴々の中にて。其身も騎馬勢子とか申す事に毎々撰出され相つとめられ候事に候。ただ、ひとり身の人大かた聞及び候ほどの事はよろしき事のみに候。老朽家にて男孫出生と申すほどの吉日はこれなく候に、此事申来り候、不占而巳矣(占はざるのみ)と存じ申合せ、上へも願ひ候事に候処、早速に心次第に仕るべく候よし仰せ出しも候て、さきよりはなにとぞ当年中にと申す事ににて候。小身の事なにの支度と申すほどの事もなき事ながら、内外上下の丁度は相応に数もすくなからず候。されども多年心やすく候上下の面々よりあつまり、とやかくとをのをの心力をつくし候故に、もはや支度もすきと残る所なく出来候。さきにて家作いまだ成就し候はぬ故か、婚期は決し候はねども、大かたならず来月上旬迄にはつかはし候べく候。
 男二人女二人これあり候うちに、男一人はうしなひ候。相残り候所これまでにて残らずかたづけ候。向子平(子女の嫁婚を畢るや、飄然五嶽に入って終る所が知れなかったという後漢の隠者)男婚女嫁畢り候て終る所をしらず候とか申す事も候へば、老朽一生の事はこれにて結課し候。今に死し候とても仕り残し候事もなく候か。それより上の事は子孫をのづから命分も有るべく候事に候。置き苦労もなき事と存ずる迄に候。
 これらの打まじり候俗事に、右申し候ごとく気分はすぐれず候て、一日々々音耗消息)も中絶し候て、本意に非ず候。」
 前の澹泊宛の書状にも書かれていた内孫の男子誕生を喜ぶ言葉と、末娘の縁組の成立で父親の責任を果たした安堵感が、もう少し詳しく語られている。「一生の事はこれで終わった」というのは、家長の仕事がようやく終わったとの意味だろう。長女の市岡氏との結婚のときは、ずいぶん思い惑った末に鳩巣にそうだんをかけたりしたものだが、今回は譜代の歴々の家柄の上、禄高も同じぐらいということで、二つ返事のような感じである。なお、『論語』子路篇の「占わざるのみ」の句が同じように引用されているが、自分が生涯常に変わらぬ心を以て一家を経営してきたことが、おのずから男孫誕生と末娘の婚姻成立が同時に成るという幸運を呼んだ、との感慨の吐露となったものか。
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白石晩年の書簡 434

2011/12/21 07:19
 白石から佐久間洞巌のもとへは八月末以来三か月ほど便りをしなかったらしい。十一月末近くにようやく出した書簡を見ると、何といっても子息の死がよほどこたえて、健康をかなり害した様子である。最初の一条が長いので、適宜切りながら紹介する。
「本月十一日の貴翰並びに雉子、恙なく昨日相達し、即冷厨に供し候処に、膏も多く風味格別に候事にて、千里の御芳情毎々の事、謝する所を知らず存じ奉り候。寒来いよいよ御壮健を承知、遐想を慰め候。
九月十四日の御父子様よりの御返報並びに壽言の巻も早速相達し候。其後これより音耗これなく候。いかゞと御心に懸けられ下され候段、浅からず忝き御事に候。まづは老朽恙なくは罷在り候へども、当年は不幸以来こヽかしこ不快にて、平生氣色爽快に覚え候事は一日もこれなく候。それにつれ候ては腰支なども知から無く覚え候て、此の如くに候体にて、中々余生も心得がたく存じ候。勿論保養の事は油断なく候。食味はもとのごとくに候。それも歯動き候て危く候故に、其の心得し候迄の飢を凌ぎ候料のみに候。たまたま入来の客など候とても、こヽろよき物語とては承り候はず、なにとやらむ物のをしかぶり候やうにて、気の活し候事これなくにて、ひとしほこヽかしこ不出来に候かと存じ候。」
今回の洞巌からの贈り物は雉子だが、もちろん塩蔵の保存食と思われる。「冷厨」は貧しい台所の意味の謙遜表現。ここにぐちっぽく書かれている体調の様子などを見ると、どうやら鬱症状を含む心身症が出ている具合である。
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白石晩年の書簡 433

2011/12/19 13:22
 全集本にある次の一条は省略して、その次の少し長い一条を取り上げたい。これについては荒川研究が、末尾の6行のみを享保八年のものとし、他は内容から前年のものの混入だとした。しかし、原本の臨写による可能性が高い翠軒自筆本では、やはりこの条全部が一続きとして扱われている。
 「一 泊船門の事、御尋に候。江城の景境にはたしかに泊船軒とか覚え候。門と申すはふるき御目付役等の帳簿にも候とて承り候。唯今は桜田大手御門と申すを御六十年までは泊船門と申し候ひき。これは開国(江戸幕府開府)の初迄は今のヒヾヤ門のほとりよりしてかの西南の大手迄は船入りの入江にて、船をも今の西丸下のやしきの辺迄に泊め申し候故に、ヤヨスカシなど申す名も今に遺り候。此節迄は東南の方は大半潮入りの入江にて、西北の方大路と聞え候。よりて山王祭に第一に糀町より渡し候も、又赤坂に伝馬町候も、それ故と申し候。関原役後に大名も漸々(ようよう)入り来られ候よりして、漸々に東南の地を水を釃み(したみ したたらせ)地を築き候て、屋敷にも町にもなり候か。もと桜田の御殿(甲府藩邸)などは水の中に候を、陸奥の正宗公(伊達政宗)つき立られ候と申し候。此時急がれ候て、材木を下にし土を積み築立て候、地震の度々にかの辺は他所より地動きやすく候て、家を損し候事すでに三度に及び候か。唯今虎門の外にヒビヤ町と申すはヒビヤ門のほとりのひじ町のひけたるに候。某老父など申し候にもヤヨスガシ今の火消やしきはキリシタンのヤンヨウス寺にてこれありを覚え候と申し候ひき。当時も(今も)西の丸坂下御門の内に大きなるエノ木。もとの一里塚と申伝へ候。此の如くに陵谷変遷、実に東海揚塵の事にて候。
御たづねの稿本も出来(しゅったい できあがる)候へども、亡息存世の日はそろそろ浄写等仕りくれ候へども、そのヽち人もなく、稿本のまヽにうちすて置き候事に候。むかしは者もよくかき候若き者共常にに三人も手前に候故に、書写等も事もかき候はず候ひき。今は手一つになり候て、老衰と申し、これらの事心ばかりに候。」
元の八重洲は今の丸の内にあり、その名の由来をしめすヤン・ヨーステンの屋敷も内堀沿いに存在した。家康の江戸入城後、大規模な土地造成が行われ、台地を削った膨大な土で日比谷の入海が急速に埋立られた。そこに多くの武家屋敷もできて、伊達家の屋敷も初めはそこに指定された。政宗が埋立を急がせて地震に弱い地盤にしたなど、今でいう液状化現象である。こうしたこまかいことに白石がなぜ詳しかったかというと、まさにその伊達藩邸の後を受けた甲府藩の桜田屋敷に、家宣将軍になる前の甲府綱豊が入ったのだからだ。
*陵谷変遷も東海揚塵もともに中国の古典からとった成語で、地形などがすっかり一変することをいう言葉。
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白石晩年の書簡 432

2011/12/17 11:34
 澹泊宛十一月十九日の肩書のある書簡も同じ年のものだ。「停雲集」続編の編纂希望のことを語った前の書簡を受けて、澹泊が詩草一巻を送ってきたらしく、それについてまず次のような所懐を述べている。
 「一 御詩一巻仰せ下され候趣、委曲承知し奉り預り置き候。右の事紛々いまだ業を卒ず候。とかく来春心静かにと心がけ候。しかれども開巻少々拝誦の所、感慨此事に候。亡存(死亡と生存)道殊に(異に?)候へども、さりながら存候事のみ。但しとにもかくにも泉路(死出の道)には音耗(おんこう、またはおんもう 通信のこと)も絶し候事に候。同じ悲憂と申す内にも御うらやましき御事のみに候。」
 全集本では初めの語が「御詩学」となっていて詩論のようなものかと思われたが、同志社の翠軒自筆本では明らかに「御詩草」と書いてあるので、初めて前の書簡とのつながりがわかる。この詩草を少し読んで、白石は澹泊の息子が不始末で追放になったことと、自分に次男が逝去したこと、この二つをともに不幸として並べ、同じ悲哀と云っても死亡と生存の大きな違いを今更に感じて、嘆きを新たにしたのである。
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白石晩年の書簡 431

2011/12/15 15:27
 ところで、全集本には十月十二日の肩書のついた澹泊宛書簡の一部が載っている。これについて、荒川研究は享保七年、つまり前年のものと比定したが、どうもそうではなく前と同じく享保八年のものではないかと思われる。
 「奥州よりも去頃の大水の事申し来り、驚怪々々。松島も塩竈も木下も大かた跡かたもなくなり候由、未曽有の大変。当地先年の地震よりも事は大きく候はんかと、委細に申し来り候。木下をばみづから暦覧し候。木の大きさ囲一丈三四尺ばかり、長さ二十間余の古杉あらあらかぞへ見候に六百御六十株転倒し、凡そは千有余年の物此の如くに候上は、其他は推知るべく候よしの事に候。尊藩如何々々。
 下野国に某心やすき人の轄地(知行所)候。名主の屋敷のうらへ四五十坪のたて坪の家、器材家具少々残り候を漂来候よしは先達て承り候。此程承り候へば、村中臭気堪がたく。よくよく見候へば田畑悉く泥土になり候中に、人屍充満の故にて、その泥土人屍今更取りて去るべき所もなきと、たしかに承り候。此の如きの上は、其辺に土毛と申すものは一粒もなく、収納の事はさておき、夫食(ぶじき 食糧)の料買求めつかはし候よし申され候ひき。某などはそれにはましたる様に候へども、三所合せて常貢(平常の年貢)の半ばにも及びかね候など申す事に候。」【全集第五 326頁】
 奥州の便りとは無論佐久間洞巌の報告のことである。松島、塩竈、ともに町が洪水で冠水したことをいうのだろう。ただ、木下がどこのことかわからない。洞巌自身が木下を「暦覧」したと書いてあったのを、そのまま白石が記した形である。末尾に自身の知行所について常貢の半分にも及びかねるとある所に注意すると、前年の台風による大水の時は幸いにも彼の知行所は災害を免れ、かえって豊作だったとあった(本ブログ366参照)から、明らかにこれは享保七年の水害の話ではない。また「驚怪々々」の表現も、前の部分と共通しているので、やはり享保八年の書簡とするのが順当だろう。
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白石晩年の書簡 430

2011/12/15 11:41
 次にこれも同一書簡の一条だが、『停雲集』続編編集の志を述べた項目がある。
 「むかし十年ばかり前に屋敷めし上げられ候とて、明日上げ候今日大火その家焼け候て、灰土を以て差上げ候事に候時に、深川へ家累引移候て罷在り候内、旧友たちの御詩とりあつめ候て停雲集と題し二巻。或人印行候べく候など申し候ひしが、今に事も済み候はぬ体に候か。其後又十年ばかりに成り候。かの編集の時は高作(あなたの御作品)など得候はむ事にもなく候ひき。其後御作など時々御見せ下され候事に候へば、此間ふと続集の心ざし相催し候。あはれ御得意の御作各体少々うつし下され候へかしと存じ奉り候。去年下され候惆悵(ちゅうちょう 恨み嘆く)の御作は必ず撰し入れ候べく候。当春やらむの五言の八景の御作も下され候御事と存じ奉り候。但しいづれなりとも御見せ下され候はんと思召し候を待ち奉り候。懶惰事急にと申す事にも無く候条、いつなりとも御心のむかれ候時に必ず頼み奉り候」【全集第五 326頁】
文中の「惆悵の御作」のことは享保七年六月三日付の澹泊宛書簡に出てくるので、これを去年としているからこちらは享保八年とわかるわけだ。本ブログ320に引用の一条の後の部分だが、そこでは長々と詩の内容や関連の唐宋史実にわたる感想や評言が続くので、冗漫を避けるために割愛した。白石はその中でこの「惆悵詞」という詩を、「尋常の風花雪月等の題詠と違ひ候事にて、先以て御尤もなる思召しより世のために利益あるべく候御傑作」とほめちぎっている。
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白石晩年の書簡 429

2011/12/14 16:28
 次にこの年の中秋の様子を述べる以下の条も、同じ書簡の一部と思われる。
「一 中秋以来の御作一々拝吟仕り候。先づ中秋の御探得候韻むづかしく候に、毎韻さてさてよろしき御とりあつかひ、恐れながら御巧者のほど感じ奉り候。九日の御絶句来不来、又は御心底の事など推量し候。碧杉御眺望の御作残る所なく、第一に御うらやましき事と、くり返しくり返し存じ奉り候。
私宅などは麦隴の中にて、咫尺(しせき ごく近い距離)の外は野竹荊榛のみにて、なにの眺望もこれなく。せめて携杖数百歩のになりとも景勝の地も候へばにて候へども、処として麦隴野竹ならぬ所もなく、風雅には掃地の体、御憐察下さるべく候。むかしは一年之作もいかさますくなからず候処に、近年以来劇勢(非常な多忙)に打紛れ。そのヽち静退の身となり候へば詩友もなく、右申す無興の境界にて詩などの事おもひもより候はぬ中にも、当年に至り候てほど何もこれなき事はこれなく候。中秋にも、九月十三夜にも、尋ね来り候人もなく、十三夕は月も少々色動き候へども、芋栗の盤に対し候て兀座(こつざ じっと座っている)し候迄にて、夜を明し候。此の如くにもなればなるものと、万感蝟集のみに候。」【全集第五 325頁】
澹泊が送ってきた中秋以後の詩作のことを言葉をきわめてほめ、それに対し自分は詩作どころではないことを述べて、さらに本ブログ223ですでに見たこの中秋の自宅での無興ぶりについて、芋や栗のお供えを前にぽつねんと独り「兀座」して夜を明かした白石自身の哀れな姿を描き出している。なお、この条でも全集本には朱記の通り原文の意味やリズムを失わせる誤写や脱字が数か所あることを注意しておこう。
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白石晩年の書簡 428

2011/12/12 21:45
 さて享保八年八月九日から十日にかけて、東北と北関東地方を大雨と洪水が襲って大被害を出した。前掲の八月廿八日付の佐久間洞巌宛書簡にはただ「東関の大水」とだけ書いてあって、具体的にどんな様子だったか判断できないが、澹泊宛の書簡などで見ると、これは広域的な災害と思われる。
 「東北地方大水の事、尊藩の下され候にて承り、驚怪し候。なにヽも仕り候へ、百二三十年来の事にて候は奇事に候。御管轄の地毛の事、きのどくの至に候。鄙語に申す熟柿のうみがきとか申し候へども、御難儀察存し候は身に試し候事の故に候。」【全集第五 325頁】
 水戸における「大水」については、先にも参照した水戸藩士西野正府の『享保日誌』には、「凡そ御代始りこれなき洪水也」とか、「予七十一歳になり御城下の洪水にもたびたびあひ候処、当年の如くなるはなし」などと書いて、細かく被害状況を書き留めている。【『随筆百花苑』第十五巻105頁】 藩領内に四千五百軒もの家屋全壊とそれ以上の数の半壊を出し、市街地のほとんどが冠水したというから、まして周辺の農地の惨状は容易に想像できる。白石の領地もたびたび水害にはやられていたから、「身に試み(体験)候事」の述べたのである。
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