江戸時代の近年の概論書読後感 6

 また、耕地の増加については、十七世紀に最も顕著で、その後は新田開発に制約が多くなり、急激な増加は見られなくなる。そんなな中でも生産量が増大したのは、技術の進歩、金肥使用と深耕の普及、商品作物の多様化、などによる生産性の上昇があったからで、「農民一人あたりの生産量増大は、工業化への準備を考慮する際、非常に重要な要素となるであろう。」【速水前掲書120ページ】
こうして農業生産量の増大は、限られた耕地に可能な限りの集約的な労働と多様な知識・技術の投入という日本独自の労働方式によって実現できたのだが、それを支えたのがこれも独自な勤労倫理だった。著者はこの書最後の「Ⅴ 近世日本の経済発展とIndustrious Revolution Ⅳ 産業革命と勤労革命」という二章でまとめて論じている。これはもちろん近代工業化にとっては負の条件だが、日本の場合自生的にではなく幕末の外圧を受けた政治変革後、上からの工業化が急激に進められることになった。しかしそれが大きな障害もなく実現していったのは、工業化の前提としての経済社会がすでに成立していたからだ、というのが著者の考えである。
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江戸時代史の近年の概論書読後感 5

 次に、江戸期が停滞の時代ではなかったことを数量的に示す手法の開発では、著者をリーダーとする経済史派の業績が光っているが、この書では次のような記述がある。
「まず、江戸時代がいかに経済的変化の激しい時代であったかは、次の三つの指数から融かである。一つは人口で、これはこの時代に三倍以上に増大したものとみられる。…………
 次に耕地面積であるが、約二倍に増加した。…………
第三は生産量で、…………四倍以上の増大を考えることは不当ではない。」【119ページ】
 点線の部分に根拠となる計算が示してあって、そこに功績があるのだが、ここではその手法の是非を検討しようというわけではないので、省略した。いずれにしても、貨幣経済の浸透という環境の中で、これまでの列島の歴史では考えられないような著しい発展を示しているのである。
 ただし、江戸初期の人口の計算については、経済史派の総合書としてまとめられた『日本経済史 1 経済社会の成立』【岩波書店1988年刊】では、速水による「17世紀における人口の爆発」説を採用しているが、その後2017年刊の『日本経済の歴史講座 2 近世』【岩波書店刊】において、これを否定し、近世初期に人口はすでに1700万人に達していたとする速水以前の「古典説」にもどるとしている。【同書第1章第1節】

 筆者にはこの訂正の根拠となる計算の是非を論ずる能力はないが、速水説を採らないとすれば、社会体制の変革が進んだ十五、六世紀の戦乱の時代に、戦闘の影響による人口の一定の消耗や生産の混乱があったにせよ、大名領国化の全国的な進展と、そのもとでの小農自立およびムラ共同体形成の動き、また商業都市や城下町の消費人口の増大による多様な職業の創出、築城・治水その他の土木・建築工事での雇用の拡大など、人口増加を促す要因は極めて多かった事が考えられる。安良城盛昭の太閤検地論の衝撃で織豊政権の役割を過大に見る傾向が生まれた時期に、速水説もその影響を受けたのであろうか。
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江戸時代史の近年の概論書読後感 4

 ちなみに、ここで言われている「日本型華夷秩序」という言葉は、一九六〇年代の末に、鎖国の概念に東アジアとの関係を組み込むことを意図して、朝尾直弘が提唱してから広く使われるようになったものだが、ロナルド・トビは、それはあくまで観念として成立しただけで、実際にそんな秩序が体制としてあったわけではない、として、誤解を生むこの説を批判している。【「変貌する「鎖国」概念」前掲『「鎖国」を見直す』所収】
 中世以前の経済・社会についても、簡潔ながら多くの創見がちりばめられているが、ここでは近世史に限ってもう少し問題を取り上げてみよう。
近世の社会構造の基礎となる小農の自立という問題について、著者はこれが太閤検地以来の領主側からの検地を通じての土地政策の結果とか、反対に自立を目指しての小農たちの戦いの結果とかだけでは説明できないと考える。むしろ貨幣経済の進展にともなって、畿内のような先進地では消費地への農産物供給で利益をふやすために、経営主である名主(みょうしゅ)層に生産量の増大をはかる要求が生まれ、それまでのような粗放で生産意欲を欠く隷属労働者(被官・名子など)に小作のような形で土地を分有させ、家族をも持つ自立した働き手に変えることが拡がったとする。【77~80ページ】
 この漸進的な過程は長期にわたって列島内に拡がり、その結果として自立農民の集合であるムラ(惣村)が確立していった。その状況を公認して一気に領内に制度化して、年貢負担者の増大と確定のために行ったのが、太閤検地をはじめとする初期検地であった。【108ページ】
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江戸時代史の近年の概論書読後感 3

 従来の江戸時代史の概説では、いわゆる「鎖国」によって、十六世紀に始まった海外、特にポルトガルやスペイン、イギリスといった欧州勢力との接触と貿易を、オランダ一国に絞り、邦人の海外渡航を禁止して、閉鎖的体制を固めたことを、歴史の進歩を止めて逆行させたというマイナスの評価が基本的であった。しかし、「鎖国」については、著者は早くからこれとは異なる積極的な意味をも認め、この書でも「鎖国にはマイナスの評価を与えることがおそらく正しいだろうが、鎖国という決意を政府が行い、そして之を実行し得たことに対しては従来ほとんど考慮が払われていないのである」とし、さらに次のように書いている。
「日本の鎖国という選択とその実施は、当時の日本が一つの国家形成(ネイションビルディング)を行っていたことの証拠でもある。だから、二百数十年後、今度は開国を決意した時に、若干のトラブルはあったにしても、一八〇度の方針転換をやって開国し、西洋化(ウエスタナイゼイション)を東洋諸国の内で最も急速に、劇的に行うことが同様に可能であった。」
このあとに留保条件として、鎖国と言っても実際には長崎という窓は開かれていたことや対馬藩による朝鮮貿易、薩摩藩による琉球貿易も公認されていたし、海外知識も蘭学を通じて入り込み、合理主義的思考の形成に大きな影響を与えていた、なども指摘しているが、これらはすでに多くの研究者たちによってとりあげられている問題であった。しかし、鎖国に国家形成という側面があり、その後の歴史に大きな影響を持ったことを、一九七〇年代にすでに注目していたのは著者の炯眼といえる。
 「鎖国」については、永積洋子やロナルド・トビ、山本博文、川勝平太らをはじめとする多くの研究で、今日では大きく見直されているし、1999年刊の『「鎖国」を見直す』【山川出版社】という編著では巻末の同名の座談会に速水融も参加している。
そこで彼はもうすこし具体的に、
「暴論かもしれませんが、キリスト教禁止と、先ほどから出ている日本型華秩序の形成―――つまり、本物の中華世界からの決別――とが、時期的に一致していますよね。…………そういうことを通じて―――ネイションビルディング(国民形成)という言葉を使っていいかどうかわかりませんが――――国境が決まり、ネイションがきまっていく。そういうプロセスがある。」【同書203ページ】
と述べている。
 この「国家形成」を「国民形成」といいかえるのには、多分近代国民国家との混同を招くという批判が予想されるが、カッコ付きで言われていると理解すれば問題はなかろう。
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江戸時代史の近年の概論書読後感 2

 まず第一に、注目すべき問題提起を含んでいる速水融『近世日本の経済社会』から始めよう。この書は、1973年刊の『日本における経済社会の展開』の再版として、その後の五篇の論文を加えて2003年に出版された。したがってむしろ旧著にはいるものだろう。しかしながら、一六・十七世紀を転換期として日本に経済社会が成立したとし、その中でいかに近代的工業化社会への前提が準備されたかを、「教科書的」にまとめたものとして、いわゆる経済史派の理論の基礎を理解するには最適の書物といえる。そうした啓蒙的な意図をもって書かれた本書は、歴史書にはまれな論理の明快さが目立っている。とかく細部に埋没しがちなボンクラの私などは、時々読んで頭の整理をすることができて、まことにありがたい。
 著者は「経済法則が、他の社会的諸現象から独立し、自己回転を開始するようになった時期」を「経済社会の成立」と呼び(19ページ)、日本においては「経済的社会の形成は、十五世紀から十六世紀にかけて、畿内平野地帯に始まり、十七世紀中には全国に拡がった」(73ページ)という。従って江戸時代は経済社会の展開の時期ということになる。1970年代に大学紛争の混乱の中でまとめられたこの学説は、その後の著者の一貫して堅持するところで、後で「勤勉革命」という日本型労働観形成の理論が加わって、日本の近現代社会を説明する有力な仮説となっている。
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江戸時代史の近年の概論書読後感 1

今日、江戸時代を見直すという試みは、日本史研究学界の内でも外でも活発になっているようにみえる。一つは近代経済学理論をベースにして、数量的な分析をもとに、いわゆる社会構造とか範疇の議論にとらわれずに日本経済史を構想するもので、特に歴史人口学の分野で顕著な成果を上げた。また、外国の研究者たちが江戸期の外交・文化・思想などに独自な発想から取り組んだ労作も注目されて、日本の研究者に歴史観の見直しを迫った面もある。一方日本の研究者たちが海外に招かれて、国内とは大きく異なる問題意識と、国際的な視野を持つ学者たちとの交流を通じて、新しい視角から江戸時代史を見直すようになる場合も多いだろう。
このようなことを頭に置いて、平素概説や史論の類に不勉強なことの反省も籠めて、たまたま目にした近年のいくつかの書物を取り上げて感想を記してみたい。
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享保の『六諭衍義』受容と法典整備 7

 なお、上記の議論の確認のためには「序文」全文の原史料の参照が必要だが、『徳川禁令考』別巻は公共図書館にも備えてあるところは少ないと思われるので、ここで読み下し文にして引用しておく。

史料 「享保度法律類寄」序文

 すべて 御仕置の法律、何の類は何と、軽重相当を類寄に事短く仕立て、御側に差し置かるべき間、その意を得て、評定所一座申し談じ、書付上覧に入れらるべき旨、有馬兵庫頭殿を以て仰せ出され候処、その後評議手間取り候につき、右書出来候やの旨、兵庫頭殿御尋ねの処、一座の衆仰せあげられ候は、面々掛り御用多く候につき、寄合い相談の暇御座なく候、先ず一通り大岡越前守一存にて仕立て候て、その上にて一座評議仕組みて上覧に入れ奉りたきの旨御申しあげ候。
 之により伺いの通り、まず越前守一人にて仕立て見候様にと仰せ出され候段、兵庫頭殿仰せ聞けられ候。然る処、越前守殿にて又々手間取り候につき、御尋ねこれあり、越前守殿仰せあげられ候は、日々多用につき、延引つかまつり候。組与力共の内二人申し付け候て穏便に仕立てさせ、その上にて相しらべ、また一座評議を加へ、上覧に入れたきの旨、御伺いの通り仰せ出され候由。
 越前守殿、上坂安左エ門・加藤又左衛門を召し寄せられ、仰せ渡され候は、すべて御仕置軽重の定書、事短く類寄に、六諭衍義の趣に仕立て候様にとの御事故、用人小林勘蔵に手伝はせ、かれこれ仕立て見候へども、六諭衍義之躰に叶ひ申すべきや、その儀一向に了見に及ばず候間、相考え見申すべき旨、仰せ聞けられ候につき、又左衛門儀、六義衍義を今の俗語に直し、また律の処ばかり短く書き立て、ケ様の義にても之あるべくやと伺い候へば、右草書のまま上覧に御入れ候の処、思し召しに叶ひ候間、早々この趣に仕立て差し出し申すべく候、見合いの書物は評定所・御勘定所留書等、何にても入用次第に差し出され候筈に申し談じ候間、その心得にて早々取り掛り候様にと仰せ渡され候。然る処、上坂安左エ門儀、六諭衍義を呑み込み申さず、相談難調につき、小林勘蔵へ内意申し聞け、又左衛門一人にて仕立て、尤も両名にて差し出し候。
 則ち越前守殿評定所へ御持参、御一座御評議何の御作略もこれなく、莫亦の御仕置、酒凶人の御仕置、引負金の御仕置は、この間仰せ出され候御書付作略仕りがたしとて、末へ右三ケ条御書付の通り書足し、辰六月十五日有馬兵庫頭殿へ御一座より御差し出し上覧に入れられ候処、上意に相叶ひ候との御事にて、越前守殿御褒美時服三重拝領なされ、安左エ門・又左衛門へ御番所銀五枚宛下し置かれ候、以上。」

【『徳川禁令考』別巻1ページ 段落分け・句読点も筆者の責任で適当に 施した。】

享保の「六諭衍義」受容と法典整備  6

 というわけでいろいろ勝手に思いつきも交えて作成過程を見てきたが、幕府の刑罰法規の収集・分類・整理だけでも相当時間を要するうえに、叙述文体をきめるための「六諭衍義」学習も短時間にできたのではないとすると、作成期間を二~三年の長さで考える必要があるのではないだろうか。加藤枝直が吟味方の肩書きを得たのは、町奉行所の中で彼が特別の職務に就いたことと無関係ではあるまい。だとすれば、享保六年が開始の年だと一応の推定をしておく。
 もう一つ「享保度法律類寄」序文で気になるのは、この序文を誰が書いたのかという点だ。もともと評定所一座に対し作成が申しつけられたのを、評定所では多用でその暇がないので、大岡一人で行うように吉宗も了解したのだが、これも大岡にはその余裕がなく、事実上与力二名と大岡家用人の手で仕立てたものを、評定所一座で評議して上呈することになった。したがって、本来ならば形式上の作成責任者は大岡忠相のはずだ。ところが「類寄」の序文では、「「越前守殿評定所へ御持参」とか、「越前守殿御褒美時服三重拝領なされ」などと大岡へ敬語を使っている。この序文はまさに加藤枝直によって書かれているのである。実質は加藤が一人で条文を作ったようなものだが、序文まで加藤に書かせて、しかも吉宗もそれをとがめなかったのを見ると、形式にはうるさかった幕府の文書システムの上ではいかにも異例の文書といえる。こんなところからも、加藤枝直の存在が将軍吉宗のお声掛かりだったために、誰も異議を挟まなかったのではないかと思えてくる。
 序文では吉宗が裁判必携のようなものを手元に置きたいと望んだことが「類寄」作成指示の理由のごとくだが、吉宗の本当の意図は、分類別に整理した幕府法典の編纂のために、とりあえずその簡易版を試作させることだった。上坂に担当させ、享保十年に一応できた「撰要類集」も、もう一つの準備だったに違いない。「類寄」と「撰要類集」作成が最終的に「公事方御定書」制定につながるのだが、そちらの方では大岡自身も大変な苦労と長い時間をつぎ込むことになるのである。
このように見てくると、幕府法典の編纂についての従来の所説で「享保度法律類寄」作成の持つ意義が十分に把握されていないことが気になる。茎田佳寿子氏の大著『江戸幕府法の研究』(厳南堂1980年)の中でもこれには軽く触れているだけで、しかも大岡一人にその編纂が任されたところまでで、実際の作成が加藤枝直の手になったことを省略している。つまり本稿で検討した「類寄」序文の記述が全く無視されているのである。茎田氏もまた大岡忠相の役割のみに注目し、吉宗と大岡の関係を過大評価する誤解の上に法典編纂の過程をたどっているが、この点は他の分野の研究者たちと同じ質の先入観に基づくものといえよう。

享保の「六諭衍義」受容と法典整備  5

 ところで、加藤が「六諭衍義」を今日の俗語に直したといっても、これが独力で簡単にできたわけではあるまい。なにしろ林鳳岡や室鳩巣のような大儒でさえ読むのに難渋したのだ。おそらく吉宗はあらかじめそれを慮って明律と白話体に通じた人物に教えを受けるように、大岡には伝えたのではないか。徂徠やその弟の荻生北渓には吉宗がすでに明律の読解という大きな仕事を与えているし(*大庭脩『漢籍輸入の文化史』8将軍家と御儒者衆)、第一機密を要するそうしたはからいに、大岡らと全く無関係な蘐園派を利用することはできない。これはあくまで推測に過ぎないが、享保五年には吉宗に明律など中国の法制書読解を手伝っていた紀州藩の藩医で儒者の高瀬学山ならば可能性が十分ある。『先哲叢談』後編の高瀬学山の項には、
「学山大岡忠相と善し、忠相甚だ之を優礼す。嘗て聽獄(裁判刑罰)の要、察情の務を問ふ。学山すなはち笑ひて曰く、監官の検覈(けんかく 取り調べ)はその知識敏通にして上下に徹透するに在るのみ。条章法令は軽重を煩はす。古今の規格に拘泥すべからずと。」
という文章があるが、果たして学山が名奉行の大岡にこんな出過ぎたことを言ったかどうかは別として、両者の間にこういう話題の談話の機会がありえたことを示すのかもしれない。大岡の役宅に学山を招き、加藤枝直とともに「六諭衍義」の読み方を習う場面などをつい想像してしまう。紀州藩は御三家として在府が原則だから、藩医の学山は江戸に居る時が多かったはずである。
 さて、幕府の刑法の簡略版を作るというこの仕事から外れた上坂政形は、享保になってからの幕府の各種の法令の集約・分類として「享保撰要類集」の編纂が主な仕事になった。これにも吉宗の意思が働いていないはずはない。史料に残っていないからと言って、こうした推測を一切否定すると、結果論ばかりの味気ない歴史になるので、合理的な推論を加えて初めてダイナミックな理解になるのだと思っている。

享保の「六諭衍義」受容と法典整備  4

すでに紀州藩主時代から明律に強い関心を持ち、藩儒の高瀬学山や榊原篁州に中国法制の研究をさせ、自らもその学習を好んでいた吉宗のことだから、早速この書を読んだことだろうが、白話体のために歯が立たないはずで、中国古典には精通している鳩巣も手を焼いたらしく、陪臣である柳沢藩の荻生徂徠に訓点を施すように、老中戸田山城守を介して「仰せ渡され」たのである。これは享保六年九月十五日のことだった。法家に傾倒していた徂徠は、明律も早くから研究し、特に享保初年からは吉宗の意思でひそかに、徂徠の弟子の本多猗蘭(忠統)候らを通じて蘐園(けんえん 徂徠学派)に明律の研究委託の話があったという。余談にわたるが、このため蘐園では明律研究にあたってあらかじめ約状を作り、みだりな口外や軽率な適用を厳にいましめた。(*平石直昭『荻生徂徠年譜考』140ページ)
ともかく、徂徠による「六諭衍義」訓点は早く完成し、それを吉宗が官刻本として出版させたのが翌月の十一日だった。この官刻本が出るまでは、吉宗とその周辺の少数者以外に「六諭衍義」を目にすることのできる者はいないわけだから、これを参考にして刑法の条文を作れと命じたのは。享保六年十月以後である。現在官刻本「六諭衍義」を直接閲覧できるところはごく少ないと思うが、さいわいネット上では沖縄県立図書館の「貴重資料デジタル書庫」でデジタル公開されている。著者名「荻生徂徠」で検索すると「官刻本六諭衍義乾」と「官刻本六諭衍義坤」の二つが頁ごとの写真で閲覧できる。注意しなければいけないのは、ネット検索では室鳩巣の著した「六諭衍義大意」ばかりがタイトルで出てくることで、これは徂徠にお株を奪われて面目を失った鳩巣に、代わりの仕事として吉宗が徳目部分のみの和訳解説本作成を命じたもので、原本の各徳目の後についていた、その徳目に背く罪に対する刑罰条文の部分はすべて取り除かれた。つまり、吉宗がなぜ刑罰の記述に「六諭衍義」を参考にせよと言ったのかは、「六諭衍義大意」を見たのではではわからないのである。こういう事情もあって、従来鳩巣の大意解説本ばかりを取り上げて、民衆教化の意義が強調されてきたのだろうが、これは吉宗が本来「六諭衍義」に期待したことの副産物で、当時の彼の改革意思の中心の一つが法典整備にあったことを忘れてはならないだろう。

享保の六諭衍義受容と法典整備 3

 まず気になるのは、吉宗が仕置(刑罰)の分類要約作成をいつ命じたのかという点である。大石氏はこれを享保九年の編纂としているが(『大岡忠相』126ページ) それは完成した「享保度法律類寄」を吉宗に提出した年次であって、序文の記述を見ると、評定所一座が作成を指示されてから実際に加藤枝直の手で条文が書かれるまでには相当の時間がかかっているように思われる。
 すでに吉宗は享保五年正月二十六日に寺社・町・勘定の三奉行に登城を命じて、老中列座のうえ水野忠之から、裁判に関する基本法の編纂を指示させている。(「享保撰要類集」) それを受けて各部門で先例となる幕府の法令の収集整理が進められただろうが、吉宗はまた別に自分の手元に置く条文型の簡便な刑事法規集を作らせようとしたことが上記の序文からわかる。その条文の表現形式の適当なモデルとして「六諭衍義」を選んだわけだが、この書を彼が手にしたには、従来歴史家たちが注意していない特別な事情があった。
 「六諭」(明の太祖洪武帝が、民衆教化の目的で宣布した六つの訓戒、すなわち父母に孝順、長上を尊敬、郷里に和睦、子孫を教訓、生業に安んじ、非違を行わぬ、という徳目)は、明末から清初に広く頒行され、その解説書である「六諭衍義」も善書として流布した。
 そのころに琉球の那覇に近い久米村の定住華僑の通事の一人の程順則が清への進貢副使として派遣されたが、帰国の時に多くの書物とともに「六諭衍義」を持ち帰った。彼は琉球でそれを公刊し、宝永七年(1710)には琉球使節に加わって江戸に赴き、刊行した「六諭衍義」を江戸にいた鹿児島藩主島津吉貴に献上した。(*深谷克己『アジア法文明圏の中の日本史』岩波書店251ページ)
 ふつうの歴史書には、それを島津吉貴が将軍吉宗に献上したと述べるのにとどまっているが、実は吉宗の方から享保三年ころに島津吉貴に対し、清で当時行われている「仕置、其の外段々之儀」つまり法律、裁判その他の様子を琉球人に尋ねるように命を下したのであって、吉貴は「中華の儀に付き申上候覚」という報告書と「六義衍義」を提出し、仕置のことはこの書を御覧くださいといった。その後「六諭衍義」は大岡を通じて庶民の教化の目的で寺子屋の手習書にも使用させたから、その面ばかりが取り上げられているが、吉宗はまず初めには裁判や刑罰の参考書として受容したのだった。(*大庭脩『漢籍輸入の文化史』研文出版200ページ)

享保の六諭衍義受容と法典整備   2

 「享保度法律類寄」の序文には注目すべきことがいろいろ述べられているので、ここで大石氏の文章を借りて、その内容を紹介しておこう。
 「これによれば、将軍吉宗が、刑罰(仕置)の軽重を分類整理し要約したものを側に置きたいといったため、御側御用取次の有馬兵庫頭氏倫が、大岡を含む評定所一座に対し、相談して吉宗に書付を提出するよう指示した。しかし、評定所一座は評議に手間取ったため、有馬から問合せを受けた。一座は、自分たちは任務が多く、集まって相談する暇がない。そこで、大岡が刑罰の分類を行い、これを一座の者が評議し上呈したいと述べた。吉宗がこれを認めたため、大岡が一人で分類を担当することになった。
 しかし大岡も手間取ったため、再度問合せがあった。大岡は日々多用であるので、部下の組与力二名が早急に分類し、それを評定所一座が評議して上呈させたいと提案し、認められた。そこで大岡は、部下の組与力の上坂安左エ門政形と加藤又左衛門枝直を呼び、刑罰を要約・類別し、六諭衍義(明の洪武帝が発布した教訓の解説書)の形式で仕立てるよう指示し、大岡家用人の小林勘蔵に手伝わせた。なお上坂・加藤はまだ若年(享保六年に上坂が二十五歳で、加藤は二十八歳)だったから、格式を重んずる幕府機構の中で、彼らが専門意識の強い勘定所や評定所などから必要な資料を集めて回るのは困難で、やはり老練な用人の小林が、編纂主幹である主人の大岡の命によってそうした雑務にあたる形をとったたのだろうか。
 しかし、彼らは六諭衍義の形式に合わせられなかったため、加藤が六諭衍義を今日の俗語に直し、律の部分を短く書いて吉宗に提出した。すると、これでよいとの返答があり、早々に仕立てるよう命じられた。
 この要約・分類作業の参考となる書物は、評定所や勘定所の留書など、なんでも必要なときに貸し与えるので、その積もりで早々に取りかかるよう指示された。しかし、それでも上坂は、六諭衍義について知識がなかったため、大岡は小林に吉宗の内意を伝え、実質は加藤が作り、形式上は上坂と加藤の両名の名で提出した。
 大岡は、それをすぐに評定所に持参し、一座で評議したが補訂はなく、文末に莫亦・酒狂い・引負金に関する刑罰三か条を補足したのみであった。六月十五日、一座は要約・分類作業の結果を有馬氏倫に提出し、吉宗に見せたところ、意にかない大岡・上坂・加藤の三名に褒美が与えられたという。」【大石学『近世日本の統治と改革』70ページ】

享保の六諭衍義受容と法典整備

 享保改革に大岡忠相が重要な役割を果たしたことは疑いないが、改革実行のための人事を含めて、多くの点でこれまでの研究が大岡のイニシアチブを過大に見過ぎていることは、すでに指摘した地方御用以外でも、見直しが必要ではないかと思う。その一例だが、大岡の担当した法典整備の仕事にしても、実際に幕府最初の公的編纂の条文体法律試案である「享保度法律類寄(ほうりつるいよせ)」の条文草稿を書いたのは、大岡のもとで与力を勤めていた加藤枝直だった。(*「享保度法律類寄」序文による) 
 彼は享保三年(1718年)に江戸へ出て幕府に仕え、享保五年(1720年)には大岡忠相配下の町奉行所与力となり、翌年吟味方に昇進、三百坪の邸宅に十人の奉公人を抱える身分になったというが、二十五歳の若者が江戸へ出てすぐ召し抱えられ、さらにいきなり同心の上位の与力になったのは、松阪時代の枝直を知ることのなかった大岡の采配によるとは考えられない。彼は紀州藩松阪領の元藩士の子息で、おそらくは吉宗が江戸へ呼び寄せ、町奉行の大岡の下の与力につけたと思われる。加藤は若年ながら歌人・和学者で、儒学の造詣もある人物として知られていたようだ。吉宗は薬草国産化の政策に丹羽正伯や植村政次など松阪出身の人物を活用したが、こうした実学系統は吉宗自身の得意分野だったから、紀州藩主時代にすでに松阪周辺の人材のこともよく知っていただろうし、和学や儒学では文武両道に強い大嶋古心という相談相手がいた。(古心の弟民右衛門常正は享保二年まで松阪城代を勤めていて、同年に没した。)
*『南紀徳川史』第六冊636ページ

享保改革期における大岡忠相の「地方御用」について 18

 なお、享保改革に大岡が重要な役割を果たしたことは疑いないけれども、改革実行のための人事を含めて、多くの点でこれまでの研究が大岡のイニシアチブを過大に見過ぎていることは、地方御用以外でもいくつか指摘することができる。その一例だが、大岡の担当した法典整備の仕事にしても、実際に幕府最初の公的編纂の条文体法律要綱である「享保度法律類寄(ほうりつるいよせ)」の条文草稿を書いたのは、紀州藩松阪領の元藩士の子息で、おそらくは吉宗が江戸へ呼び寄せ、町奉行の大岡の下の与力につけたと思われる、加藤枝直だった。(*「享保度法律類寄」序文による) 彼は享保三年(1718年)に江戸へ出て幕府に仕え、享保五年(1720年)には大岡忠相配下の町奉行所与力となり、翌年吟味方に昇進、三百坪の邸宅に十人の奉公人を抱える身分になったという。二十五歳の若者が江戸へ出てすぐ召し抱えられ、さらにいきなり同心の上位の与力になったのは、松阪時代の枝直を知ることのなかった大岡の采配によるとは考えられない。加藤枝直は若年ながら歌人・和学者で、儒学の造詣もある人物として知られていたようだ。吉宗は薬草国産化の政策に丹羽正伯や植村政次など松阪出身の人物を活用したが、こうした実学系統は自身の得意分野だったから、紀州藩主時代にすでによく知っていただろうし、和学や儒学では文武両道に強い大嶋古心という相談相手がいた。それに、古心の弟民右衛門常正は享保二年まで松阪城代を勤めていて、同年に没したが、当時の文化・商業都市松阪の持つ人材情報は吉宗が十分把握していたと思われるのである。(*『南紀徳川史』第六冊636ページ)

享保改革期における大岡忠相の「地方御用」について 17

 最後にどうしても触れておきたいのは、武蔵野新田開発の立役者川崎定孝が「心一杯」に事業を進めたといっても、それを支持し、その方向を指図したのはやはり将軍吉宗だったことを明かす史料の存在である。『寛政重修家譜』の大嶋家の部分の、吉宗の側近の小納戸役として仕えた大島以興(これおき)についての記述を見ると、「はじめ紀伊家につかへ、享保元年有徳院殿(吉宗)本城にいらせたまふのとき、したがひたてまつり、御家人に列し、六月二十五日御小納戸となり、安房国安房、朝夷両郡のうちにをいて采地千石を賜ふ。(中略)元文四年川崎平右衛門定孝武蔵野に新田を懇するのとき、仰によりてこれを指揮す。(後略)」とある。 父親の大嶋古心は元文二年に没していたから武蔵野の本格的な開発には関われなかったが、子息の以興が吉宗の意を戴して、現地との連絡や直接の指示にあたったということである。このときすでに以興は御小納戸頭取になっていた。この役では鷹場周辺の管理に将軍側からの連携を担当する御場掛を勤めるケースが多いが、以興が御場掛になったという記録はないようだ。【太田尚宏『幕府代官伊奈氏と江戸周辺地域』岩田書院】 これまでの武蔵野新田開発の研究者たちは、吉宗周辺の隠密御用に関心がないため、大島古心・以興親子の役割を全く見逃してしまった。川崎定孝がいかに心一杯に事業を進めたといっても、こうした側近を通じた将軍直接の指示や財政支援がなければ自信をもってあたることは難しかったことだろう。ここにも吉宗独特の将軍親政のやり方が見えるのである。

享保改革期における大岡忠相の「地方御用について 16

 元文三年は武蔵野新田はひどい凶作に見舞われたため、夏秋作ともに損毛はなはだしく、大多数の農民は御救いなしでは生きてゆけない状況で、それを知った吉宗が代官の上坂安左衛門政形を直接呼んで報告を受けた。
 「御代官、奥新部屋え召させられ、御直々にお尋ねこれあり。安左衛門殿甚だ御当惑なされ、退出の節直に御頭大岡越前守様え御尋ねの趣仰せ上げられ候処、ただいまより新田え罷り越し、残り居り候百姓共扶助せらるべき旨仰せ渡され候由にて、その夜安左衛門殿押立え御出(後略)」(読み下しは筆者)
 大石氏は注意を払っていないが、吉宗が担当役人の上坂から報告を受ける前に情報を得ていたことがまずわかる。武蔵野新田地域には、御庭番などの隠密を派遣していたかもしれない。もう一つは、大岡忠相でさえ将軍に直接指示を受ける場面などどんな史料にも出てこないことが、深井雅海氏の『綱吉と吉宗』(吉川弘文館)などの徹底的なな調査でわかっているにもかかわらず、ここでは御用部屋で代官と異例中の異例な直接対面している点で、吉宗がいかに百姓たちの生活破綻による新田開発の挫折を恐れていたかを物語るものだろう。三つ目に、大岡の指示を受けた上坂がただちにおもむいたのは、押立村の川崎平左衛門のところだったことから見て、平左衛門が農民側を代表する立場にいたことがわかる点だ。彼が「享保年中竹木樹芸のことをうけたまわり、しばしば私財をもって近郷の窮民を賑せし」【『寛政重修家譜』】地域農村の名望家であることは、役人側にもよく知られていたのだろう。
 かくして上坂とともに困窮農民の救援に当たった川崎定孝は人物を見込まれて「新田世話役」に任命され、役料三十人扶持の幕府役人とし新田経営に尽力することになった。彼が下役に任命された矢島藤助と高木三郎兵衛の二人とともに、新田出百姓の家々を個別に廻り、生活状況・持反・採草地や肥料の有無・農耕精勤などを細かく調べ、実態把握に努めたうえで、具体的に有効な援助の方法を考え、次々に開発を進める手を打っていったことは、すでに「享保改革の舞台裏」ブログで紹介したので、これ以上の重複は避けることにする。
 ともかくこの目覚ましい活躍を評価した上坂は、大岡を通じて、武蔵野新田の経営には自分の手を離れて川崎が「料簡一杯に」働けるようにしてほしい、と上申した。吉宗はこの上申を認め、新田については「平右衛門心一杯に致させ」、上坂は「取次ばかり」をさせればよいので、解任するには及ばないと大岡に指示した。念のために付け加えておくと、将軍から大岡へ、また大岡から将軍への内内の連絡・伝達は、すべて御側御用取次を通じて行われたが、こうした人事の正式決定は大岡から若年寄の本多忠統(ただむね)へ伺書を上げ、勝手方老中の松平乘邑からそれを認める旨の返答を受け取っている。吉宗は実質的には将軍親政で重要事項を処理しながら、形式上の幕府職制を通じた事務手続きも無視しないように配慮しているのである。大岡の役割はこうした微妙な調整に必要な仮面のリーダーというところだろうが、町奉行の激務からははこのころには解放されて、寺社奉行に昇進し、大名に列するようになるので、地方係の連絡・調整の実務に前よりは深くかかわるようになっていた様子がうかがえる。

享保改革期における大岡忠相の「地方御用」について 15

 大岡の地方御用のスタッフに、定免制問題ですでに吉宗の信頼を得ていた田中丘愚が入ったのは、定免制採用についてのブログで詳しく紹介したように、吉宗自身の意向からであろう。そうした経緯を無視して、田中を大岡が吉宗に推薦したかのごとく推測する村上直氏(『江戸幕府の代官群像』同成社)やその門下の西沢淳男氏(『代官の日常生活』講談社)の見方は、単純な誤解である。
 大岡配下の地方巧者の中で異色の存在は蓑正高で、代々猿楽(能楽)師の家に生まれ、本人は下町で商いをしたり、山事(相場)などにもかかわったり、一介の町人にすぎなかった。その後田中丘愚に普請技術を学び、才能を認められてかその娘婿となった。享保十四年に丘愚の紹介で大岡配下のスタッフとなり、支配勘定格から代官へと昇進した。(*大石学『大岡忠相156頁』) 丘愚の学問の師の成島道筑(吉宗側近に書物係として仕えたお茶坊主)を通じて蓑の存在は吉宗に伝わっていたろうから、蓑の採用も吉宗の指示だった可能性が高い。
 次に、紀州系の野村・小林両人の地方采配が破綻した後の武蔵野開発に最大の功績があったのは川崎平右衛門定孝だ。彼は武蔵国多摩郡押立村で代々名主を勤める家に生まれ、「若いころから荒れ地の開墾に手腕を示したり、竹木樹芸の御用を承るなど、生活も裕であった」【村上直【『江戸幕府の代官群像』同成社 100頁】という。野村・小林ら紀州派の武蔵野新田担当時に押立村名主として協力していて、その存在は将軍や側近にも知られていたのではないかと思われるが、大石学氏の詳細な研究の中でも川崎については元文四年の登用以前のことは空白である。また村上氏の「代官群像」の説明は一般読者向けのアバウトな書き方だから、彼が抜擢された経緯を知る参考にはならない。川崎の事績を記す史料としては、彼の下役を勤めた高木三郎兵衛による『高翁家録』【『武相史料叢書三』】が唯一のようだが、残念ながら現在の筆者には利用できないので、元文四年前後の記述の一部を大石氏の研究からの孫引きによってみておこう。

享保改革期における大岡忠相の「地方御用」について 14

 ただし上坂がいかに能吏であったとしても、彼自身は農政の経験はないわけで、実質の実務を担当するスタッフが必要である。それには紀州藩の新田開発を大畑才蔵と井沢為永という郷士=豪農クラスの地方巧者の活用によって成し遂げた経験があるので、吉宗はすでに『民間省要』の著者田中丘愚(丘隅)が河川改修の技術にすぐれているのを見込んで、享保八年に御普請御用十人扶持で幕臣に採用し、玉川の改修や稲毛・川崎の二ケ領の用水補修などに当らせていた。享保十一年には井沢為永が手を焼いていた酒匂川の治水という難工事に加わって、自ら工夫した弁慶俵や蛇籠という石詰めの袋を並べて堤防を強化する方法で見事やりおおせた。こうした功績により、享保十四年には丘愚は支配勘定格三十人扶持に昇進、武蔵国多摩郡・埼玉郡のうち三万石を支配地方役人として、大岡の配下に組み込まれた。しかし休愚はこの年の暮れに六十八歳で急死したので、そのあとを息子の休蔵喜乗が継いで、享保十五年に父と同じ支配勘定格になり、さらに元文四年に代官に就任して武蔵野新田開発に活躍した。

享保改革期における大岡忠相の「地方御用」について 13

 こうした紀州系人脈を中心とする路線が武蔵野新田開発では破綻してしまったわけで、この後は新たなプログラムと体制が必要となってくる。ちょうどこの享保十五年という年に,同七年以来老中首座・勝手方老中として改革の司令塔役を担ってきた水野忠之が突然罷免された。室鳩巣が伝えるところでは、これは水野がみずから申し出た退職ではなく、実質は将軍から罷免を言い渡されたものらしい。(『兼山秘策』日本経済草書巻二653ぺいじ) 勘定所を中心とする守旧派の幕臣たちの間では、水野は「聚斂(しゅうれん)の臣」だという悪評が専らだったという。吉宗自身が求めた年貢率の引き上げの政策破綻の責任を押し付けられた形だったのだろう。
 大岡のもとで継続された武蔵野新田開発は、岩手・荻原両代官が農民たちの要求への対応として、調査に基づいて年貢割り付けを見直し、中止されていた家作料の支給を再開したが、農民の抵抗は止まず、広域的な訴願運動が展開されていた。その後享保十七年(一七三二)に大岡の腹心の上坂政形が新たに代官に任ぜられ、ここから武蔵野新田事業への大岡の関与が本格化する。上坂はそれまで法典編纂など重要な仕事で大岡の片腕となり力量を買われていた逸材なのだが、吉宗の意図した法典編纂が無理とわかって、御触書集成の方向に移ったあと、武蔵野開発の地方御用の総支配を任される形となったのである。

享保改革期における大岡忠相の「地方御用」について 12

 もともと見沼地域の水利・灌漑・排水をめぐっては複雑な利害関係があって、かなり前から対立する方式の開発請願が勘定所に提出されていたから、吉宗はそれらの書類を十分検討したうえで、ここの新しい開発に取り組むにあたっても、まず勘定奉行筧播磨守正鋪に現地の状況を調査させることにした。そして井沢の指揮下で開発された見沼新田の検地を、この筧が行ったことは多くの史料が示している。当然これには勘定所支配の代官所と手代以下の地方役人が使われたはずである。ところが、武蔵野の新田開発の場合、野村・小林がどのようなスタッフを使って実務に当ったのかは史料には表れていない。従来の代官所で働いていた人員も雇われたかもしれないが、紀州出身の仲間たちや江戸などで募集した経験者などの新規雇人たちを使ったとも考えられる。いずれにしても、野村・小林という紀州系の地方巧者に頼って武蔵野新田の開発を進めようとしたのには相当の無理があったというべきである。では吉宗はなぜこの二人を選んだのか。前にも述べた通り、御三家の当主として紀州藩主時代の吉宗は江戸在住がほとんどで、和歌山に帰ったのはごく短い期間だったし、農政については全面的に大島伴六(古心)に任せていたから、藩主時代に野村・小林のような軽輩を認知していたとは思われない。どう考えても彼らを推薦したのは大島古心以外にはなかろう。