田沼の経済政策を支えた男、石谷清昌 50
平秩東作は石谷をとても尊敬していて、「天性聡明にいして、仁愛ありて、廉直に秋毫も私なき奉行」と述べているが、また別の所では、「忠誠あって、謹慎にして思慮ぶかき賢大夫」ともしている【『庫裡法門記』】。明和二年(1765)の夏、石谷が長崎奉行兼帯で長崎へ赴任していた時に、東作は自分も長崎へ行って何か国益の筋で働くこともないかと考え、密かに長崎行を計画したりもした。江戸を出てまもなく、南条山人という友人に出合い、散々意見されて長崎行きは断念したということだが、このあと御藏法門というかくれ念仏の一派に引き込まれ、一緒に行動しているうちに、その教義や信仰の実践に疑問を抱き、その年の十二月にはついにこれを異教として石谷奉行に訴えようと決意する。詳しいことはここでは省くが、すでに交代で江戸へ戻っていた石谷が用人を通じてこの事を聞き、直接本人に細かく問いただして、容易ならざる事件と判断し、その後配下の勘定所普請役元締の花田武助と東作の二人を「おとり」として門徒たちの中に潜り込ませ、詳細に調査する事を指示したという。石谷はこのことについて、「此程の一事、もし外より申し出づるものあるまじきものにもあらず。さあらば折角心付きたる事、跡になりては残り多き事もあれば、御傍衆まで密かに申し出でたり。この上仲間に加り居て、たとへばおも立ち世話などいたしつかはす事ありとも、決して罪科には仰せ付けられざる様申上げ置きたり。」と述べて、東作たちがかくれ念仏の仲間の幹部にまでなっても、後で罪に問われることはないように手を打ったと云っているのである。【前掲書】
かくれ念仏を取り締まりの対象としてきびしく追求する幕府の思想宗教統制政策については、経済政策とは違う観点での分析が必要だし、ことに陰湿な「おとり」捜査によって一網打尽をはかるというのは、幕府権力(石谷自身も評定所のメンバーとしてその中枢部にいる)の抑圧的な性格を示す以外の何ものでもないが、ここでは主題から離れるのでそのことには触れないでおく。注意すべき事は、彼が「御傍衆」にまず報告して細かい点まで打ち合わせをした後、東作に指示している点である。「御傍衆」とはいうまでもなく田沼意次であって、恐らくこのような密事の相談は城内ではなく、田沼の私邸で行われたのではないだろうか。通常の案件では、同僚の公事方勘定奉行の安藤惟要や町奉行の依田政次に相談するところだが、そうした手順を踏まずに田沼とだけ密談しているのだ。石谷と田沼のこうした密接な関係を示す史料があるのに、これまであまり史家の注意をひいていない。
かくれ念仏を取り締まりの対象としてきびしく追求する幕府の思想宗教統制政策については、経済政策とは違う観点での分析が必要だし、ことに陰湿な「おとり」捜査によって一網打尽をはかるというのは、幕府権力(石谷自身も評定所のメンバーとしてその中枢部にいる)の抑圧的な性格を示す以外の何ものでもないが、ここでは主題から離れるのでそのことには触れないでおく。注意すべき事は、彼が「御傍衆」にまず報告して細かい点まで打ち合わせをした後、東作に指示している点である。「御傍衆」とはいうまでもなく田沼意次であって、恐らくこのような密事の相談は城内ではなく、田沼の私邸で行われたのではないだろうか。通常の案件では、同僚の公事方勘定奉行の安藤惟要や町奉行の依田政次に相談するところだが、そうした手順を踏まずに田沼とだけ密談しているのだ。石谷と田沼のこうした密接な関係を示す史料があるのに、これまであまり史家の注意をひいていない。
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