白石晩年の書簡 124
この手紙にある通信使日程の情報は前述の実際の経過とは大分違っているが、それはともかくとして、まず全体に、室鳩巣や小瀬復庵に宛てた書簡の丁重さにくらべて遠慮のない書きぶりが目立つ。これは唐金梅所が富裕ではあっても身分の低い町人だという意識もあるだろうが、関西の文人として伊藤東涯の古義堂に親しみ、その頃流行の徂徠学の影響も受けて、唐音重視を当然として書いてよこした梅所の書簡や詩稿を読んだ白石のいらだちと不快感が表れたものと思われる。
大潮元皓(1676~1768)は肥前松浦に生まれた黄檗僧で、儒学や詩文に長じ、江戸深川に草庵を結んだ時期(1712~1717)もあって、新井白石とは交流があり、荻生徂徠や服部南郭とも親しかった。長崎で唐音(中国口語)を国思靖に学び、岡島冠山や雨森芳洲とはその同門であった。黄檗山万福寺で中国僧のために通訳を務めたほどだから、かなりの実力だったと思われる。徂徠の「訳社」の講師をしたこともあり、古文辞学との関係は深かった。(*大潮については、高橋博巳『江戸のバロック』ぺりかん社刊に詳しい記述がある。)
白石が深見玄岱の言に従って、大潮の唐音(中国口語)の実力に疑問を呈したかに見えるのは、徂徠派に対する対抗意識も手伝っているかもしれない。玄岱の父は中国に長く住んで流ちょうな中国語を話したには違いないが、玄岱自身は鹿児島や長崎にずっと居て、やはり学習によって覚えた語学力だから、大潮との差が決定的だったかどうかはわからない。伊藤仁斎・東涯の古義学や荻生徂徠の古文辞学は、言語への実証的アプローチのために生の現代中国語(すなわち唐音または華音)の学習を重視する立場をとった。当時一世を風靡したこの新傾向の学派に白石はかなりの反発を感じていたので、唐音の学習が詩の上達にはつながらない、との嘲笑もそこに発している。白石自身では唐音に関する疑問があれば玄岱に質していたようだ。
いずれにしても、大潮は享保二年に一旦江戸を引き上げて肥前の竜津寺に帰っていたが、この年の6月に唐金梅所の許を訪れるはずで、そのことを梅所が白石に書き送ったのであろう。実際にこの時は長滞在になり、梅所に請われて「垂裕堂記」を記している。なお、白石が大潮の「西帰」のあとにその詩を読んだと言っているのは、この書簡の書かれる時までの二年間のうちということになる。
大潮元皓(1676~1768)は肥前松浦に生まれた黄檗僧で、儒学や詩文に長じ、江戸深川に草庵を結んだ時期(1712~1717)もあって、新井白石とは交流があり、荻生徂徠や服部南郭とも親しかった。長崎で唐音(中国口語)を国思靖に学び、岡島冠山や雨森芳洲とはその同門であった。黄檗山万福寺で中国僧のために通訳を務めたほどだから、かなりの実力だったと思われる。徂徠の「訳社」の講師をしたこともあり、古文辞学との関係は深かった。(*大潮については、高橋博巳『江戸のバロック』ぺりかん社刊に詳しい記述がある。)
白石が深見玄岱の言に従って、大潮の唐音(中国口語)の実力に疑問を呈したかに見えるのは、徂徠派に対する対抗意識も手伝っているかもしれない。玄岱の父は中国に長く住んで流ちょうな中国語を話したには違いないが、玄岱自身は鹿児島や長崎にずっと居て、やはり学習によって覚えた語学力だから、大潮との差が決定的だったかどうかはわからない。伊藤仁斎・東涯の古義学や荻生徂徠の古文辞学は、言語への実証的アプローチのために生の現代中国語(すなわち唐音または華音)の学習を重視する立場をとった。当時一世を風靡したこの新傾向の学派に白石はかなりの反発を感じていたので、唐音の学習が詩の上達にはつながらない、との嘲笑もそこに発している。白石自身では唐音に関する疑問があれば玄岱に質していたようだ。
いずれにしても、大潮は享保二年に一旦江戸を引き上げて肥前の竜津寺に帰っていたが、この年の6月に唐金梅所の許を訪れるはずで、そのことを梅所が白石に書き送ったのであろう。実際にこの時は長滞在になり、梅所に請われて「垂裕堂記」を記している。なお、白石が大潮の「西帰」のあとにその詩を読んだと言っているのは、この書簡の書かれる時までの二年間のうちということになる。
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