白石晩年の書簡 141

 さて、現全集本の小瀬復庵宛書簡(新復手簡)の底本は、奥書によると寛政八年(1796)の台洲源元凱浄写本二冊である。森原章はこれを原本とくらべた結果、字句にかなりの相違があり、浄写の際の誤読もしくは誤写や、用字の勝手な変改など、全体として原本に不忠実で、あまり良質とはいえないとしている。また、原本で一通のものを二つに分離したもの(七通)や、逆に原本では明らかに二通の書簡なのに一連のものとして収録したもの(四通)があり、源元凱の取り扱いの粗雑さによるかと思われる。ただし、私が現存の原本に照応する部分の内容を点検したところでは、基本的に同じ内容であって、問題になるような脱落や変更はみられない。したがって、元凱は恐らく原本をもとに筆写したのであって、全集本に在って博物館所蔵の現存の原本では亡失している書簡は、元凱の浄写時より以後に何らかの事情で散逸したものと見てよいだろう。
 ところで、台洲源元凱とはいかなる人物か。俗名は荻野左衛門といい、加賀の生まれで、元凱は諱(イミナ)、台洲は号である。京都に出て古医方を学び、西洋医学の接取にも積極的な良医だったようだ。朝廷の典薬大允となった後、幕府に招聘されて医学館の教授となったが、西洋医学を容認しない医学館に見切りをつけて京都に帰り、再び典薬の任についたという。多くの編著書を残している。(『朝日人名大辞典』参照)医師として郷土の先輩小瀬復庵を尊敬し、白石の復庵宛書簡を写したのは理解できることである。ただ用字法などが時代とともに変化しているので、厳密にもとの通りに写す意識はなかったかもしれない。
 現全集の佐久間洞巌宛書簡(新佐手簡)の方は、もともと洞巌の孫の義路が、伊達家の命により、祖父に宛てた白石の書簡十余束を寛政十年に献上したものを、藩医工藤鞏卿(きょうけい)らが整理して「参差錯乱」を正し、四巻の巻子に編集したものによった、ということになっている。(鞏卿の巻子の序文に記載) しかし、このときの「整理」は順序の推定に根拠があまりなく、結果として混乱を正すことはできていない。また、実際にはそれの写本が底本に使われているために、全集本には少なからぬ脱漏や誤写があって、本文としての信頼性にかけるところが多い。(*前記のごとく従来原本が非公開だったので、その研究はまだどこにも発表されていないようだ。) なお、鞏卿は仙台藩の江戸詰め医師で『赤蝦夷風説考』の著者として名高い工藤平助の子である。

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