仁斎学と地方門人 23
ところで、この中の「漢文」とか「訳文」についてのていねいな説明を見ると、阿波では「訳文」という古義堂独特の学習法を行っていなかったことがわかる。よく知られているように、仁斎は古学へ転換するずっと前から、師弟の上下関係よりも相互の切磋琢磨を重視する「同志会」というユニークな討論の場を作っていたが、その後も絶えず時代の枠を超えるような革新的教育法を編みだしていた。50歳代から60歳代の仁斎学大成期には、『論語』や『孟子』のような古典を十分理解するのに必要な語学力をつけるために、「訳文」による漢文の徹底的訓練を「古義学」と並行して塾生たちに課した。ここで東涯が説明しているが、唐宋の名家の文章を和訳し、さらにそれをもとの漢文に復元するというやり方で、これは学問の基礎となる読解力と作文力の養成を主とするものである。その場合、仁斎は後世流行した『唐宋八家文』のような既成の便利本を使ったのではないらしいが、この手紙では初学者用として、東涯は『文章軌範』を勧めている。【古義堂の教育法については、加藤仁平『伊藤仁斎の学問と教育』に詳しい紹介がある。】 いずれにせよ、和臭を去った本格的な漢文の能力の養成という点で、古義堂の教育は当時一般に大きな評価を受けたし、この面の学習のためにわざわざ遠くから入門する学生も多かったようだ。
次にこの書簡の発信年次を確かめて見よう。『語孟字義』(書簡中では古い書名の『字義』を使っている)の初めての出版は宝永2年(1705)の冬(11月7日付の跋がある)で、東涯の日記によると、同年の12月17日に仁斎の父了室の碑を建立した時に一部を入れて奉納したという。(三宅氏前掲書 361頁) 刊行が「年内」と書簡にあるのは、現代の用法とは違って「前年の内」の意味で、発信時の正月6日は出版の翌年ということになる。したがって、この時にはすでに書簡の相手にもまた長野氏にも本は届いているはずなのである。また東涯はここで仁斎のことを「先人」と呼んでいるが、「先人」は故人となった父親を意味するから、この手紙は仁斎の死後に書かれたものであることが明らかで、仁斎の没年は宝永2年3月12日だから、宝永2年以前の発信ではありえない。これらを考え合せると、書簡が宝永3年の正月6日の発信であることは確定できる。
ここには地方の門人たちが古義堂の教科書の出版を首を長くして待っている様子が目に見えるようだ。追伸には仁斎の雑多な文章を集めた『古学先生文集』の近いうちの刊行の予定も書いてあるが、その写本作成に便宜をはかる旨を付記しているのは、この中にも教科書的な役割をする論文があるからだろう。ちなみに、実際の『文集』の刊行はもっと遅れて享保2年(1717)になった。
さて、仁斎や東涯と地方門人たちの書簡の往復の一部を読みながら、古義学の生成の様子や、その普及のための工夫などに、じかに立ち会うことができた。こうして書簡を通して接する世界は、われわれにとって単なる過去ではなく、ある意味ではともに生きる現在でもある。
仁斎は『論語や『孟子』をひたすら読み抜くことで、古典の中に切実な人間の問題を見出だし、さらに、信仰に近いような情熱で、一見単純に思われるような基本的命題をくり返し同志や門人に説いてやまなかった。これは私たちにも今日の生き方にかかわる熱い問題を提供している。
最後に、ここでは仁斎学の内容については十分に触れることができなかったので、参考文献として一つだけ、子安宣邦氏の『伊藤仁斎の世界』【ぺりかん社2004年】をあげておく。 (了)
次にこの書簡の発信年次を確かめて見よう。『語孟字義』(書簡中では古い書名の『字義』を使っている)の初めての出版は宝永2年(1705)の冬(11月7日付の跋がある)で、東涯の日記によると、同年の12月17日に仁斎の父了室の碑を建立した時に一部を入れて奉納したという。(三宅氏前掲書 361頁) 刊行が「年内」と書簡にあるのは、現代の用法とは違って「前年の内」の意味で、発信時の正月6日は出版の翌年ということになる。したがって、この時にはすでに書簡の相手にもまた長野氏にも本は届いているはずなのである。また東涯はここで仁斎のことを「先人」と呼んでいるが、「先人」は故人となった父親を意味するから、この手紙は仁斎の死後に書かれたものであることが明らかで、仁斎の没年は宝永2年3月12日だから、宝永2年以前の発信ではありえない。これらを考え合せると、書簡が宝永3年の正月6日の発信であることは確定できる。
ここには地方の門人たちが古義堂の教科書の出版を首を長くして待っている様子が目に見えるようだ。追伸には仁斎の雑多な文章を集めた『古学先生文集』の近いうちの刊行の予定も書いてあるが、その写本作成に便宜をはかる旨を付記しているのは、この中にも教科書的な役割をする論文があるからだろう。ちなみに、実際の『文集』の刊行はもっと遅れて享保2年(1717)になった。
さて、仁斎や東涯と地方門人たちの書簡の往復の一部を読みながら、古義学の生成の様子や、その普及のための工夫などに、じかに立ち会うことができた。こうして書簡を通して接する世界は、われわれにとって単なる過去ではなく、ある意味ではともに生きる現在でもある。
仁斎は『論語や『孟子』をひたすら読み抜くことで、古典の中に切実な人間の問題を見出だし、さらに、信仰に近いような情熱で、一見単純に思われるような基本的命題をくり返し同志や門人に説いてやまなかった。これは私たちにも今日の生き方にかかわる熱い問題を提供している。
最後に、ここでは仁斎学の内容については十分に触れることができなかったので、参考文献として一つだけ、子安宣邦氏の『伊藤仁斎の世界』【ぺりかん社2004年】をあげておく。 (了)
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