白石晩年の書簡 303

 洞巌の師は山崎闇斎の弟子の遊佐木斉で、闇斎門の浅見絅斉の弟子たちがこのころの土佐の儒学の主流だったから、その関係からこうした動向には関心を持ち、また情報も多かったはずだ。白石は野中兼山の功績を認め、かつその才能を惜しみながらも、学問が世に認められないのはむしろ普通だと言っている。孔子がすでにそういう経験をしていた。ただ、道の行われると行われざるとは時の勢いによる、というのが彼の考えである。
 ここの彼の論理は必ずしも明快ではなく、前の方では「すべて叔世に至り候てまことしき道は行はれぬ勢いに候」という時代認識に立って、そこであえて行おうとするのは「腐儒」か「愚庸の人」のどちらかだというのに、後の方では世の勢いが向かないときでも自分は行うべきだと取れる言い方をしている。後者は自分の身についての行いはしなければならないが、無理に世に広く行おうとすることは意味がない、というのであろう。彼自身が家宣の知遇を得て世に自分の信念に基づく政治を行ったのと、現在の吉宗のもとでは何も正しい道は行えないと見切りをつけていたのと、その対比が裏に隠されていると考えるのは深読みにすぎるだろうか。そうなら、「腐儒」や「愚庸」とは厳しい表現だが、この「叔世」に将軍の侍講を買って出た室鳩巣もそのどちらかにに入ることになるわけだ。
 次の一条は前に出ていた硯石依頼の件で、これは省略し次の前田綱紀についての寸評を見ておこう。
 「加賀宰相殿詩文の事、先師(木下順庵)存生(ぞんしょう)の内にはいかさまさやうの事も候やと見え候事も候ひしかども、其後は聞きも及ばず候。
 此老人どのの学問、またまた一格これあり候事にて、舅姪之間に候へども、水戸西山殿(光圀)のやうなるものにもこれなく候。ずいぶん々々書籍の上には功のゆきたるものに候へども、かはりたる所候学問にて候。今も常に書をば手を停められず候と承り候。」
 洞巌が綱紀の詩文などがあれば見たいといってきたのに対する答である。綱紀と光圀とは「舅姪之間」としているが、これは綱紀の母が水戸藩主徳川頼房の娘大姫で、光圀はその兄弟だったからである。綱紀の書物好きは有名だったが、学問に変ったところがあるという点は、白石が必ずしも好みとする傾向ではなかったのかもしれない。

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