白石晩年の書簡 323
『兼山秘策』の伝えるところでは、諸方から文庫に集まった多くの古書の真偽鑑定が必要になり、大学頭の林信篤(号は鳳岡)とその子信充(榴岡)が命を受けてその任に当った。担当者として立ち会った祐筆の下田幸太夫はをはじめ、御文庫の係などは、林父子の鑑定の杜撰さに疑問を感じたらしく、だんだん吉宗の耳にもそれが入り、翌享保8年には彼らは交代させられることになる。
こうした経緯を見ると、吉宗の文庫充実にかける意欲は一時のきまぐれなどではなく、幕府の法制や機構、社会体制などの総合的な整備に向けて、調査研究を行う目的意識がはっきり出ている。前出の深見有隣の長崎派遣も中国の官僚制度とそれを支える法体系の調査に目的があった。勘定方や町方を中心とした享保の制度改革の面は近年の研究でかなり重点的に解明されているが、もう少し広く幕藩体制下での官僚機構整備の持つ意味をとらえなおす必要があるように思う。そうした動向に対して白石が冷顔視の態度をとり続けたのは、彼が一貫して法家的な現実主義よりは儒家の王道と仁政を旨とする理想主義を信念としたからだろう。
こうした経緯を見ると、吉宗の文庫充実にかける意欲は一時のきまぐれなどではなく、幕府の法制や機構、社会体制などの総合的な整備に向けて、調査研究を行う目的意識がはっきり出ている。前出の深見有隣の長崎派遣も中国の官僚制度とそれを支える法体系の調査に目的があった。勘定方や町方を中心とした享保の制度改革の面は近年の研究でかなり重点的に解明されているが、もう少し広く幕藩体制下での官僚機構整備の持つ意味をとらえなおす必要があるように思う。そうした動向に対して白石が冷顔視の態度をとり続けたのは、彼が一貫して法家的な現実主義よりは儒家の王道と仁政を旨とする理想主義を信念としたからだろう。
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