白石晩年の書簡 420
いずれにしても、この皇子派遣問題は正規の記録類には残されないだろうし、真偽は確かめようもないが、たとえ一等史料に登場しないとしても、政治の機微に参画した白石の伝聞だけに、十分信頼すべきものだろう。ただ康熙帝の狙いの中に、単に朝鮮との関係ばかりではなく、正式の国交は避けながらも実質的な貿易は進展させたかった対日政策上の意図もあったかもしれない。私的商人たちの貿易船による福建―長崎ルートでの日本銅の獲得は当時の中国の貨幣材料調達に絶対不可欠であっただけに、それまでの明・清政府の海禁策をゆるめ、「展海令」の積極策を取った康熙帝としては(任鴻章『近世日本と日中貿易』六興出版 第二章)、一方での李氏朝鮮を通ずる間接貿易も無視できないと考えていたはずである。長崎から中国・オランダ商人によって輸出された銅の額は元禄十一年のピーク時には900万斤をこえていたが、一方対馬藩を通ずる日朝貿易では、公貿易では定額3万斤弱だが、私貿易では元禄十年に143万斤余の輸出が記録されている(田代和生『日朝通交貿易史の研究』第二部第十章)。
清の前半期を通じて国内の銅不足は深刻な問題だったが、日本側では逆に金銀の流出防止からその代替物としての銅も増大する需要に産出が追い付かなくなって、資源枯渇が意識されるようになり、幕府の輸出制限策強化が繰り返されるに至っていた。何よりそうした政策を最も強力に主張かつ実行したのが白石だったのである。康熙帝はこうした日本側の実情をさぐるために密使を商人に化けさせて日本に送り込み、かなり正確に情勢をつかんでいたらしい(任鴻章前掲書156頁)。長崎や対馬という貿易の窓が同時に秘密情報の通路でもあったのは当然である。
清の前半期を通じて国内の銅不足は深刻な問題だったが、日本側では逆に金銀の流出防止からその代替物としての銅も増大する需要に産出が追い付かなくなって、資源枯渇が意識されるようになり、幕府の輸出制限策強化が繰り返されるに至っていた。何よりそうした政策を最も強力に主張かつ実行したのが白石だったのである。康熙帝はこうした日本側の実情をさぐるために密使を商人に化けさせて日本に送り込み、かなり正確に情勢をつかんでいたらしい(任鴻章前掲書156頁)。長崎や対馬という貿易の窓が同時に秘密情報の通路でもあったのは当然である。
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