享保期の農政と定免制採用の問題をめぐって 9
ところで、『民間省要』には「民間省要序」と題する序文があり、その末尾には享保庚子仲秋日という年紀と桑門某稿という署名がついている。そして次にもう一つ「自序」があって、こちらの年紀は享保辛丑仲春日で、署名は武陽散民某書としてある。庚子は享保五年で、辛丑は同六年にあたる。斉藤氏は前者も文の調子から見て丘隅自身の手になると推測しているが、妥当な判断のようだ。さて前者の序文によると、丘隅は百姓として「所々の田地を作り」、「身みずから勉めて農桑を採り、業として粋(くわ)しからずと言う事なし。一生志をつくして密かにこれを書すといえども、」「秘していまだ人をして看せしめず。」とあり、序文の終わりに「猶後世の君子に対してときの到るを待つのみ。」と記している。これらの記述を信ずれば、『民間省要』の本文全体が享保五年八月までには一応完成し、翌年の春ころに改訂版が出来上がったのであろうか。ただし、吉宗に最終稿が献上されたのはさらにその翌年つまり享保七年六月六日で、その時に付け加えられた跋文も『新訂民間省要』には載っているが、斉藤氏の詳細な比較分析によって、平川本が最終稿ではなく、田中家伝来の稿本で最終稿の一歩手前のものであることは明らかだから、跋文の写しは献上直後に自家稿本に加えたのだろう。なお、このテクスト原本が平川家に移ったのは明治年間だということである。
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