江戸時代史近年の概論書読後感 100

 「第四章 藩の設計者たち」

 著者は藩の始まりを彦根藩と藤堂藩と考えている。藤堂藩という呼び方は、伊勢を本藩としながらも、伊賀に大きな領国があるので、津藩では両方を含めた名前にならないからである。今までこういう問題に特に注意する史家はあまりなく、江戸初期の大名改易や国替を、大名の力を弱め、幕府の威権を確立するための単なる手練手管とする旧式の解釈が長く通説になっていた。著者は、その面も否定する訳ではないが、むしろ、藩を「預知」できる力が各大名にあるかどうかを見極める間、宛行状の発給や、相当する官職の付与を見送っていた可能性が高いと見ているようだ。家臣団のなかに戦国の遺風を強く持った一門や重臣が存在すると、幼弱な藩主では抑えきれず、大きなお家騒動が頻発したのがこの時代である。【福田千鶴『幕藩制的秩序と御家騒動』校倉書房一九九九年】 将軍家内部の動揺も収まり、各藩の安定化も進んで、ようやくほぼ全面的な宛行状(領地朱印状)発給と官職付与が行われたのは、三代将軍家光の治下においてであった。この後も国替や改易の可能性は残っているのだが、諸藩はここで事実上領知が安定したと安堵して、本格的な藩作りを加速させたというわけである。

 ただ、幕府との緊張関係は相当に強くても、強大な軍事力と藩主の政治能力の高さで幕府も簡単には動かせないような伊達政宗の仙台藩などは、一方で将軍家への忠節をあらゆる方法で表明しながら、居城の仙台城を幕府の許可を得て早くに建造し、同時に城下町の建設にも着手した、という例がある。政宗は土木・建設に長じた川村孫兵衛重吉を関ヶ原戦直後に雇い入れ、重吉は仙台城下の水不足を解消させるべく、広瀬川の上流から支流を作り、その水を地中に染み込ませることで地下水を確保した。藩造りに着手した早さでいえば、藤堂藩よりは伊達藩の方が先だった。この後、伊達藩は領国の位置を変わることなく、幕末まで続いた点も藤堂藩と同じだ。違うのは、伊達騒動という藩を揺るがし幕閣の介入でやっとことを納めた大きな御家騒動が後に起こったことだろうか。理論として著者の説には利点が多くあるので、こういう例外を言い立てる気はないが、一応頭に置いておく必要はあるだろう。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント