白石晩年の書簡 21

 白石と鳩巣の罹災を聞いて、泉佐野の唐金梅所から二人のところへそれぞれ見舞いの綿布を贈ってきた。防寒衣料その他さまざまな用途に使える綿布は、送られる側でもありがたかったろう。このことを詠んだ詩「泉南唐生贈る所の綿布を謝し、因りて南紀祇伯玉(祇園南海)を思ふ」が『白石先生余稿』にある。おそらく白石に唐金を紹介したのは南海だったにちがいない。なお永原慶二著『新木綿以前の事』にある通り、この頃は木綿がだんだん普及期にはいるが、『徳川実記』にはしばしば将軍からの下賜品に綿布が見えるから、まだ貴重品の部類にはいるものだった。和泉は当時の木綿生産中心地の一つで、また綿布は菱垣廻船の主な積荷でもあった。
 前述の詩には年紀が記されていないが、今回の罹災の見舞いであることは次の鳩巣宛書簡でわかる。
 「この間は遠方より御使に預かり忝なき次第、いよいよ御無事の御便り承り、大幸の至りにござ候。御営作の事千万心もとなく候。仍而(なお)唐金生へ謝詩一章遣したく候。即ち御目にかけ候。くるしかるまじく候はヾ、遣わされ下され候様に頼み奉り候。詩中用ひ候字、出所覚え候処を別にしるし申し候。これはあなた(唐金の方)へ遣わされ候にも及ぶまじく候。
     《中略》」
唐金への手紙は鳩巣を通じて出していたのだ。詩の応酬が大きな関心事で、しかもその詩を友人に見せて、出典まで注記をつけている。この時書いた詩は、翌日の短い手紙によれば、気に入らないところがあって書き直したようである。これらの手紙の度に、深川と水戸家上屋敷(小石川)の間を文箱を持った使いが何度も往復した様子が目に浮かぶ。

"白石晩年の書簡 21" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント