田沼の経済政策を支えた男、石谷清昌 46

 田沼や石谷が金銀流出防止の重要性を学んだのは、前述のように新井白石の『宝貨事略』だったということを思い起こそう。この点を指摘したのは鈴木康子氏だが、鈴木氏は唐銀の直接輸送についても、これが貨幣問題と直結していたという。
 「・・・・この一七六〇年代に勘定奉行石谷備後守が、新井白石の思想を基盤とした御国益の保持を重要視した意図は何であろうか。そこには当然ながら、幕府の経済政策において、金銀に関して深い関心を持たざるを得ない問題が浮上してきたからと考えるのが自然であろう。そして、白石が幕府の政策に深く関わった正徳年間には、国内の金銀銅産出量の減少と貨幣鋳造が幕府の重要課題であった。そのため正徳新例の主要な目的は、金銀輸出量の抑制となったのである。つまり正徳新例の発布は、一面貨幣鋳造の原料となる貴金属が海外へ流出するのを、出来る限り防ぐためになされたとも言える。そして正徳年間の次にこの問題が浮上してきたのが、元文年間(筆者註 吉宗統治の後期)とこの宝暦・明和年間なのである。
 そして幕府は、一七六五(明和二)年には銀貨幣下落の打開策として、勘定吟味役(後に勘定奉行)川井治郎兵衛久敬の提言などにより貨幣鋳造事業を開始した。そのために、貨幣鋳造の原料となる金銀などを十分確保しなければならなかったが、それは正徳年間以上に困難を窮めた。第五章で白石と石谷家は親戚関係があったと記したが、その関係だけから石谷が白石に注目したのではなく、白石と石谷の時代の状況が類似していたこともあり、白石の考えに沿った政策を、さらに推進させようと考えていたのであろう。そのため、石谷は白石の「金銀は国の宝」という考え方を改めて再認識し、金銀の国外流出を防止することにとどまらず、逆に積極的に金銀を輸入する政策を採った。」【前掲書259頁】
 この重要な指摘はまさにその通りだと思うが、もっと正確にいえば、このとき金の確保のことは田沼や石谷の頭にはあまりなく、銀の輸入こそが問題の核心だった。前述のように、大阪からの直送の対象はもっぱら現銀だったのであり、おそらくすでに銀を素材とする新貨幣(計数貨幣)の発行が検討されていたのではないかと思われる。それと、鈴木氏は特に注意していないが、石谷の政策観に最も大きな影響を与えたのは彼が長らく近侍した将軍吉宗だったから、吉宗の話を通じて白石の著作に関心を抱いた可能性が大きい。よく知られているように、吉宗は白石の儒礼に基づく理想論的な政治には批判的で、その方面の政策をすべて退けたが、貨幣や貿易に関しては、ほぼ踏襲する方針を採った。吉宗の統治の後期に勘定奉行と長崎奉行を兼任して大きな実績をあげた松浦信正は、石谷にとって尊敬する先輩だった。
 石谷の方針に基づいて当時貿易や貨幣問題に関わった勘定方の役人の中には、靑島俊蔵や野口直方のような知的に優れた人たちがいて、靑島は『光被録』(長崎貿易の実体をまとめた著作)を、また野口は『宝暦十三年以来唐船持渡金銀図』という記録を残している。靑島に関しては本多利明との親交や蝦夷探索の件で前述した。ここでの問題について、野口の記録の「付録」に、次のような記述があることに注目したい。
 「宝暦十三より金銀持ち渡しをば、田沼意次の政柄を専らせられし時、人ありて白石の宝貨事略を示す。意次も打ち驚きて、さらば唐船阿蘭陀へ試み、金銀を求め見むとて申し断し所なり。」(鈴木氏の引用によるが、仮名遣い等は読みやすいように改めた)
 ここにいう「人ありて」とは誰のことかわからないが、鈴木氏はこれが石谷ではないかと推測している。石谷が『宝貨事略』の内容そっくりの抜き書きを長崎奉行所の文書の中に残していることからも、彼がこの書の内容を熟知し重要視していた証拠だというわけである。
 

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