白石晩年の書簡 72

 この後二月二十七日にも、白石は加賀の復庵のもとへ書状を送っている。
 「本月十四日の瑶函、昨二十六日滄浪先生(鳩巣)御伝達忝なく拝見、尊藩御安静に御動止御勝れ、常々御精勤と承知、欣慰に堪ふるなく候。依って先頃申上げ候事に付き、御家法の大薬拝賜、御念を入れられ候故に、道中何の恙(つつが)もなく相達し、御深情申し謝すべきやうもこれなく、この後うち続き服用仕り、余生をも煩しからず日を送り、程なく御従駕の節をも待うけ、拝謁に(お会いした時)御礼をも申上げ候やうにと、私祝此事に候。」
 ここまでは先回の手紙で参朮膏を追加して送って欲しいと頼んだのに答えて、復庵が薬を送ってくれ、無事受け取ったことに対する謝礼の言葉だが、次項には復庵の木曽路での詩作に関連して、木曽義仲のことにふれた感想が復庵の手紙に書かれていたため、白石がそれに応じて自身の義仲論を披露している。史料の性格によって批判的に読む必要があることを指摘している点など、注意しておいてよい部分ではないか。
 「御紀行の事申入れ候に付、義仲項王(項羽)に似候事仰せを蒙り候。虞妃(虞美人)・巴女(巴午前)の事は此方に心よりもなく候に、仰せにつき存じ廻らし候へば、誠に似たる事共に候。迷失道陥大澤中(迷いて道を失ひ大澤中に陥る)と候も、騅不逝(騅ゆかず)と候も、又似たる事共に候。
 これに付又存じ合せられ候は、去年御物語も申しき。後の鎌倉の代に、故老の記し候ものと見え候ものヽ中に、木曽殿のことを評し、松殿(藤原基房 前関白)の意見に任され候事共、また最後の供にはいかヾに候とて巴を返され候も、あはれに候とこれありき。東鑑(吾妻鏡)・盛衰記(源平盛衰記)・平家物語のごときは、鎌倉にて記し候もの故に、平家の事をも義仲の事をも、分外あしざまにも申しなし候処も有るまじきにもあらず候。在京の間に挙動無骨の事候如きは、もとより田舎に成長し、礼法など申す事には習はれず、疎豪の心にまかせられ候処に候。
 足利の直冬のごときも、山名・細川・桃井等の推戴によりて、入洛の日黒革の腹巻に草鞋・さしたびにて軽骨の躰に候を、見物の者ども天下の武将にはいかヾに候などひそかに嗤ひし候など申す事も候へば、これらの事はいづれの代にも有まじき事にもなく候。たヾ義仲のごときは、其の功もすくなからず、其の人もまた豪雄たりし事は御作のごとくに候。」
 「御紀行」というのは復庵が木曽路を題材にして作った詩のことで、前便でその気韻や句法などが激賞されていたものだが、その部分は当ブログでは残念ながら省略した。復庵が、木曽義仲が巴御前を道連れにしたのと、楚の項羽が虞美人(ぐびじん)を道連れにしたことの類似を書いてよこしたのに対する白石の感想が、ここに述べられている。「騅(すい)ゆかず。虞や虞や汝をいかんせん。」とは項羽の発した詠嘆の言葉として『史記』が伝える句。騅は項羽の愛馬。
 また、松殿基房は後白河法皇に近い立場の重臣だったが、義仲が入洛した後其の勢力を恐れて、娘の伊子を義仲の室とした。ここでは、義仲が基房との連携を重んじて判断を誤った、とか、最後の逃走行に巴を連れて行かなかったのは、巴が憐れだなどと批判した「故老」の言を取り上げている。白石はこれらの見方が鎌倉寄りであることを指摘して、義仲を弁護する立場をとっているのである。

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