白石晩年の書簡 90
この消息によると、仲秋当日に小石川の白石宅に集ったのは、益田鶴楼・土肥元成・都築随庵らだったが、珍しく随庵が一首の詩を物したので、白石がその和を作った。それの鳩巣への報告に句ごとの注記を添えているわけである。都蠡湖、すなわち都築随庵は晩年の白石の数少ない友人の一人で、名を孟明といい、苦学の末に医師となった人である。(『停雲集』の白石註を参照)
前記「白石先生余稿」所収の益田鶴楼の仲秋韻への和詩の題詞では、初めて仲秋の名月に友人たちと集って、牛島から隅田川に舟を出して遊んで以来二十五年ばかりになることを回想している。この最初の仲秋観月会がいつのことかは確定しにくいが、年数を逆算すると多分元禄四年のあたりだろう。元禄二年の八月十五日に白石の次女の清が誕生したので、翌年から仲秋の日には酒を置いて家族で月を愛でる習わしが始ったとは『白石先生余稿』が記すところ。開塾の年である元禄四年には、それを学問仲間の風雅の遊びに発展させたのかもしれない。
前記「白石先生余稿」所収の益田鶴楼の仲秋韻への和詩の題詞では、初めて仲秋の名月に友人たちと集って、牛島から隅田川に舟を出して遊んで以来二十五年ばかりになることを回想している。この最初の仲秋観月会がいつのことかは確定しにくいが、年数を逆算すると多分元禄四年のあたりだろう。元禄二年の八月十五日に白石の次女の清が誕生したので、翌年から仲秋の日には酒を置いて家族で月を愛でる習わしが始ったとは『白石先生余稿』が記すところ。開塾の年である元禄四年には、それを学問仲間の風雅の遊びに発展させたのかもしれない。
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