白石晩年の書簡 110

 さて、この年十二月初旬に江戸に大火があった。これは『徳川実紀』に記載はないが、室鳩巣の青地兼山宛十二月二十四日付書簡に概略が述べられている。 
 「当五日十一日度々大火の儀御聞き成さるべく存じ奉り候。五日の火事、染井御屋敷(加賀藩中屋敷)も危き程に候処、御別条これなく目出度く存じ候。」【『日本経済叢書巻二』390頁 *『兼山秘策』はほぼ正確に年次順に配列されている】
 これに関連すると思われる白石の復庵宛の手紙がある。ところが、その内容から十二月五日の白石宅近くでの出火で白石の新宅自体が罹災したと解釈され、それに基づいて『新井白石日記』の「年譜」や宮崎道生『底本折たく柴の記』の「略年譜」に享保三年十二月五日罹災と記載された。森原章『新井白石研究論考』所収の三つの論考によってこの誤りは訂正を受けたのだが、ここで問題の書簡を見ておくことにしよう。
 「一昨日失火、其の御辺(復庵の居所である加賀藩中屋敷辺)火道に当たり候か否か、今において分明せず、千万心許なく候。火発し候所は私宅西方、僅に径百数十歩を隔て候に付、此方の事御察し下さるべく候。昨日も終日匇劇(そうげき あわただしいさま)の体、人進じ難く候。やうやく此のごとく御座候。御口上御返答承るべく候。巳上。
  十二月七日」【全集弟五 196頁】
 自家が罹災したとは全く言っていないし、ここで「終日匇劇」というのは、近火で類焼の危険が迫ったためだろう。もし焼け出されていれば、前田侯からの「御口上御返答」を聞くため復庵の来訪を期待することなどありえないはずだ。
    

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