白石晩年の書簡 215

 もともと明暦三年(1657)の大火の余燼がまだ燻ぶっているような焼け跡の仮屋で生まれた白石は、当時の主君土屋利直から「火の児」と呼ばれたという話が『折たく柴の記』に見える。まことに彼は生涯を通じて火事との縁が深かった。これまで元禄十一年(1698)の罹災を手始めに、同十六年(1703)と享保二年(1717)と、三回の大きな火事に遭っている。そしてこの享保六年の三月四日に、建ててからまだ四年もたっていない小石川の家を焼かれる第四回目の火災に見舞われたのであった。もっとも、江戸に火事はつきもので、加賀藩の山田藤右衛門という武士の親は生涯に三十一回も焼け出されたといい、また藤右衛門自身は罹災二十回に及んだというから、この親子にくらべれば白石などまだまだ軽いほうだとも言える。【『可観小説』金沢文化協会本 80頁】
 それはともかく、火災後間もなくの三月十一日に、白石から復庵に出した書簡がある。
 「御使見られ候通り、唯今是より使差出し候処に、却って貴報に罷成り、本意を失ひ候得ども、然りと雖も此節御芳問の次第、誠に以て謝する所を知らず候。火後室先生(鳩巣)へ御目に懸り候て大略承知、一昨日又途中に於て室先生御機嫌うかゞはれ候とての帰路に出会ひ、御不余の事承知、恐れながらいかにと右申し候ごとく使申付候仕合に候。然る所打ち続き御快然の御儀と承知し奉り、恭喜これに過ぐべからず候。
 次に私宅の事御尋ね遊ばされ候義、過分の至辱き仕合に候。御察しの通り此辺殊に火急に御座候き。但し深林を隔て候故、直に火焔の放候迄の事になく候故、多からぬ奴僕等引わけ、半ばはとりみだし候書籍またはわづかに候やぶれ具足等を二つのぬりごめへ入させ、半ばは火をふせがせ、本居をばやうやくに火をふせぎおほせ候と存じ候所に、北にあたり候小家どもへ火かヽり候あと、しきりに長屋へ一時に火うつり、ここに至り手多からぬ奴僕等精力疲極し候。 致すべきやうもなく火中を馬にてのりぬけ候て、父子共にのがれ出候。奴僕等は或は田間に或は林下に、火焔中にたち候て、一人もつヽがなく候。
 右の仕合に付、度々二つのぬりごめ危く候を、残り止まり候輩とかくと火をふせぎおほせ、文籍の類は当分草稿などとり散し反故体のものも恙なく候。其段は御安心思召し下さるべく候。
 委曲は右申し候是より進じ申し候とてしたヽめ候書中に悉く候条、縷々する能はず候。木屋がけ七,八日中には事済み引移りもうすべく候条、猶其節万々申し謝すべく候。先ず其内何様にも御前(綱紀公)之儀は頼存し奉り候。恐惶謹言。
  三月十一日
 尚々、衰老の上に候か、火後とやかう取はからひ候心つかひ、又は弔問入り来りの応酬にちかれ、昨今不快に候へども、軽き事には候。これらの事御目に懸け候ためにも候得ば、十日ばかりの中にもとの宅へなにとぞ御枉臨期し奉り候。当時は土肥源四郎宅に某は罷居り候条、必々御尋に及ばず候。已上。」【全集第五 245頁】
 これによると、火事の後白石は室鳩巣に二回出会って、復庵が体調を崩したことなどを聞いたので、とりあえず使いを出して見舞おうとしていたところに復庵からの火事見舞いの手紙をもらって、その答礼と近況報告のためにこの書簡を書いているのである。追書にあるようにいったん土肥元成宅へ身を寄せた白石は、元の場所に小屋がけの仮住まいを建てることにした。そこで復庵には十日後くらいにそちらへ来てほしいと言っている。

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