白石晩年の書簡 315
余談になるが、享保五年から自分流の改革に着手し始めた吉宗に対する悪評が、このころそろそろ幕臣たちの間でささやかれつつあった。上記の白石書簡よりは少し後、小瀬復庵が享保七年二月十四日付で国元に宛てた書簡では、「公儀御善政の事御聞及びの儀はもちろんに候。然しながら語旗本衆は一円に敬服の心これなき沙汰に候」などと報告している。そればかりか、一月に林信篤が壽賀の返礼に加賀藩邸を訪れた折に、前田綱紀に向って次のように述べたというから、遠慮のない批判があちこちで横行したさまがうかがえる。
「常憲院様(綱吉)、文昭院様(家宣)なども語政事に其失品々これあり候へ共、結句(けく 結局)此御痛は冶り易く候。当御代(吉宗)の病は治り難く候。当上様には事の外御才智超凡に御座候間、人を何とも思召されず候。塵芥の様に思召され候故、都而(すべて)其失おもく御座候。」
ここで信篤が例に挙げるのは、白石の上記書簡の十日ばかり後に起った日本橋辺の火事の後始末に、火元の永富町は追い立て取り上げになり、近隣十五町には油断の罪によって課金350両が徴収されたことである。実は『徳川実紀』によるとそれだけではなく、火事後日本橋一帯を全部火除地(ひよけち)にいったんは指定しようとしたのを、町人からの訴えがあって免じ、そのかわり今後火事になったら土地はすべて収公するから厳重に注意せよ、と言い渡したという。【国史大系第四十五巻『有徳院殿御実紀』二百五十八頁】 信篤は、火事は多くは天災なのに、上の才力によって災を防ごうとするから、「自然と非道の御仕置になり行く」と批判したのち、さらに続けて、
「只今の風俗は、老中も役人も、上の御理屈つよく候故、名にとぞ御公事に出合申さざる様(おとがめを受けないよう)に心得申し候故、たとへ表向は恐懼の体(てい)にても、実は離れ申す様に御座候。」
などとも言っている。もちろん林信篤は保守派の代表みたいなもので、吉宗からも軽蔑されていたし、こうした言葉が出るのもわかるけれども、加賀百万石の太守を前にして大胆な発言をしたものである。この対談の模様を綱紀側近の者から聞き及んだ復庵は、白石にもこの内容を知らせたようだ。
「先日新井氏へ参り、潜(ひそか)に学士(信篤)の美談を申し候へば、扨々(さてさて)と驚き申され候。兎角(とかく)人には書はよませ申し度(たき)事に候。是皆いなと申されぬ物語共に候。
新井氏申され候は、今度永富町を追立て成され、ほかに屋敷も下されず、扨は火除成され申す事かと存じ候へば、別に御払ひに成り、一町を売渡し官物に成(なし)候由、これは如何なる儀に候や、定めて左様の事共学士も承り、笑止がり申されてこれあるべくとの事に候。中々一往に何も承り申さず候。新助殿(鳩巣)などは荻(萩?)原源左衛門(美雅)などの話のみにて御善政迄の事御聞請と相見え候。」【『浚新秘策』金沢文化協会本 30頁】
もともと白石と林信篤とは仇敵同士といってよい間柄だが、ここでは吉宗への反発で共感しているかのごとくである。なお、最後の鳩巣のことについての付記は復庵の観察を述べたもので、彼は自然に自分と親しい白石の肩をもつ気持らしい。
「常憲院様(綱吉)、文昭院様(家宣)なども語政事に其失品々これあり候へ共、結句(けく 結局)此御痛は冶り易く候。当御代(吉宗)の病は治り難く候。当上様には事の外御才智超凡に御座候間、人を何とも思召されず候。塵芥の様に思召され候故、都而(すべて)其失おもく御座候。」
ここで信篤が例に挙げるのは、白石の上記書簡の十日ばかり後に起った日本橋辺の火事の後始末に、火元の永富町は追い立て取り上げになり、近隣十五町には油断の罪によって課金350両が徴収されたことである。実は『徳川実紀』によるとそれだけではなく、火事後日本橋一帯を全部火除地(ひよけち)にいったんは指定しようとしたのを、町人からの訴えがあって免じ、そのかわり今後火事になったら土地はすべて収公するから厳重に注意せよ、と言い渡したという。【国史大系第四十五巻『有徳院殿御実紀』二百五十八頁】 信篤は、火事は多くは天災なのに、上の才力によって災を防ごうとするから、「自然と非道の御仕置になり行く」と批判したのち、さらに続けて、
「只今の風俗は、老中も役人も、上の御理屈つよく候故、名にとぞ御公事に出合申さざる様(おとがめを受けないよう)に心得申し候故、たとへ表向は恐懼の体(てい)にても、実は離れ申す様に御座候。」
などとも言っている。もちろん林信篤は保守派の代表みたいなもので、吉宗からも軽蔑されていたし、こうした言葉が出るのもわかるけれども、加賀百万石の太守を前にして大胆な発言をしたものである。この対談の模様を綱紀側近の者から聞き及んだ復庵は、白石にもこの内容を知らせたようだ。
「先日新井氏へ参り、潜(ひそか)に学士(信篤)の美談を申し候へば、扨々(さてさて)と驚き申され候。兎角(とかく)人には書はよませ申し度(たき)事に候。是皆いなと申されぬ物語共に候。
新井氏申され候は、今度永富町を追立て成され、ほかに屋敷も下されず、扨は火除成され申す事かと存じ候へば、別に御払ひに成り、一町を売渡し官物に成(なし)候由、これは如何なる儀に候や、定めて左様の事共学士も承り、笑止がり申されてこれあるべくとの事に候。中々一往に何も承り申さず候。新助殿(鳩巣)などは荻(萩?)原源左衛門(美雅)などの話のみにて御善政迄の事御聞請と相見え候。」【『浚新秘策』金沢文化協会本 30頁】
もともと白石と林信篤とは仇敵同士といってよい間柄だが、ここでは吉宗への反発で共感しているかのごとくである。なお、最後の鳩巣のことについての付記は復庵の観察を述べたもので、彼は自然に自分と親しい白石の肩をもつ気持らしい。
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