白石晩年の書簡 467

 白石の父が仕えた土屋家の第二子が相馬家の養子に入り、勝胤を名乗って家督を継いだが、それに付いて土屋家から移った家臣の中に白石の義兄の郡司正信がおり、また父とは旧友だった岡部(求女)もいたから、白石は相馬藩の内部事情にはかなり通じていたわけである。郡司正信については前にも出てきたが、養子縁組の事情については『折たく柴の記』に説明がある。父の仕えた土屋利直のことを、『折たく柴の記』でも民部少輔の唐名である「戸部」と書いているのは、その頃実際に土屋藩内で「こほう」の呼び名が使われていたのだろう。
 近世の大名領国の直接の起源はもちろん戦国大名の領国にあるのだが、戦国大名そのものが当時国人と呼ばれていた在地の小領主や土豪・地侍層を征服併合して家臣団として組織したものだから、臣従しているとは言っても国人層は相当な自主性を保っていて、彼らの意に沿わない、又は強力な被護力を持たない、つまり頼み甲斐のない領主は、弊履の如く捨て去ることを辞さなかった。軍事・政治上の重要事項の決定に当って、家臣団の合議が尊重されたのには、そういう背景があった。近世の大名や幕府は、領主や将軍の権威を確立する中で、特に在地領主を城下町に集住させることや、転封・移封を繰り返すことによって、そうした権力の不安定さを克服しようとした。しかし、基本的な構造としての権力分散的な体制は残り続けたことは、笠谷和比古氏の『近世武家社会の政治構造』【吉川弘文館1993年】などが説く通りである。白石が朱子学者の立場から仁政を理想とし、特にまた吉宗の政治に感じた専制的な側面に危惧を抱き、相馬藩の合議制を賞賛したい気持ちを持ったことは理解できるが、いろいろな事情から相馬藩に戦国の遺風が残っていたことを、当時の幕藩体制全体に一般化することはできなかろうと思う。

"白石晩年の書簡 467" へのコメントを書く

お名前
ホームページアドレス
コメント