テーマ:白石晩年の書簡

白石晩年の書簡 12

 白石は同じ正月二十六日に鳩巣にも見舞いの手紙を出している。前日に鳩巣から被災の知らせがあったのに対する早速の返事である。  「昨日の御報(手紙)拝誦(はいしょう)、驚嘆是非に及ばず候。しかれども、火急のところに 御全家御異事なく候を、この上の多幸とおぼしめさるべく候。当時(いま)御寓居藩府の中、ご遠慮いかにもごもっともに存ぜられ候。…
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白石晩年の書簡 11

 加賀藩医小瀬復庵は白石より十七歳若く、『太閤記』の著者小瀬甫庵の孫で、元の名は坂井順元だったが、のちに高名な祖父の姓を継ぐことにした。前田綱紀の信頼が篤く、参勤交代の度に江戸と金沢を往復したので、白石書簡の中にも江戸の藩邸宛と国元の金沢宛の両方が含まれている。白石は鳩巣を通じて加賀藩に知己を得たが、特に復庵には健康上の相談をよくしてい…
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白石晩年の書簡 10

  右の通りに候間、家累(かるい=身内や従者たち)数十口(人)は十方へ離散し候。さてこの上はかのものども風雨をも凌ぎ候程の事仕らずしても叶ふまじく候。しかればその事にお恥かしながら力もすでに尽きはて候上、鳩巣の事いかほどに存じ候へども是非に及ばず候。すべて患難憂戚の事(苦しいことや悲しいことは)士の常に候。いはんやそれがし事は卑賤より …
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白石晩年の書簡 9 

  いまだ逢申さず候へば、いかが心得られ候やらんもはかりがたく候へども、書籍等の事は第二義にて衣服だにこれなきほどの事に候上は、公辺出頭の謀(はかりごと)も断絶と察し入り候。(幕府儒官として出勤するめども立たないものと推察します) 委細ご存じの前の事、申し上げ候も不調法に候へども、常々承り及び候ところ、貴太守(加賀藩主前田綱紀)卵翼の御…
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白石晩年の書翰 8

 翌日に屋敷を明け渡すように命ぜられて帰宅したその晩に、次の居住予定者から催促めいた手紙を持った使者がきたのは、いかにも不愉快だったことだろう。実はこの菅沼新左衛門定虎というのは吉宗の側近(小納戸)として紀州藩から幕府入りした人物で、仮住まいの不便な生活だから一刻も早い屋敷の引き渡しを望んでいたわけだ。ついでに言うと、正徳六年四月から享…
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白石晩年の書翰 7

 「晩飯の後、今度それがし屋敷拝領の由にて、菅沼新左ヱ門(定虎)方より、いつごろ屋敷差し上げ候かと家来の手紙にて尋ねくる。明日差し上げ候事、佐州(大久保佐渡守常春)能登守(大岡忠相)へ申し遣す由返答し訖(おわ)、しばらくありてりて小石川の筋に失火ありといふ。昨日暮雨ふりて、この間にこれなく静かになりしなど申せしなり。この夕べ深見(玄岱)…
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白石晩年の書翰 6

 享保二年(1717)の一月はあわただしい月だった。まずこれまでの神田小川町の屋敷が召し上げになった。正徳二年に拝領し、630坪の地所と298坪に及ぶ建坪があった。家宣の将軍就任後も白石の公的な地位は寄合と低いままだったが、千石に加増になったのでそれに見合う屋敷として与えられたものだった。吉宗が将軍になるに伴って紀州藩から幕府入りした多…
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白石晩年の書簡 5

 この人は和歌山藩の藩儒だった祇園南海(ぎおんなんかい)とは早くから親しくしていて、佐野市立図書館蔵の「食野家関係資料」の中には南海の梅所宛の書簡に銘酒をもらった礼を述べたものがある。唐金・食野両家のけたはずれの富の源は、廻船業の外に廻米・両替・大名貸・干鰯(ほしか)など、地の利を生かして展開した多様で有利な営業によるもので、梅所は詩文…
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白石晩年の書簡 4

 正徳六年(享保元年)の春二月十一日は白石の六十歳の誕生日で、それを祝う寿詩を泉佐野の豪商の唐金梅所(からかねばいしょ)という文人からもらったが、その時に自宅内に建てた垂裕堂のために白石の題詩を賜りたいと乞われていた。ところが政権交代や自分の退任などで取り込みが続き、五ヶ月後の九月になってようやく「垂裕堂八詠」(「白石先生余稿」に収録)…
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白石晩年の書簡 3

           (2)退任直後のの白石  新井白石の自叙伝『折たく柴の記』は正徳六年(1716)五月で終わっている。彼を重用した将軍家宣は先に世を去っていたが、それを継いだ幼い家継もこの年に没して、急遽紀州藩から吉宗が迎えられ、世は享保と改まった。白石は退任後も千石取りの旗本にとどまったが、政権からは遠ざけられ、もっぱら家に…
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白石晩年の書簡 2

 これから試みようとするのは、原典によって白石の伝記や言説を知りたいという要求の一部にでも答えるために、全集第五に収められているものを中心にして、晩年の書簡を可能なかぎり年紀順に並べ直して、彼の生活や考えが生の形で浮かび上がるようにしようという企てである。この全集に集まっている書簡は、土肥元成宛のものを除き、ほとんど享保になってから、つ…
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白石晩年の書簡 1

            (1) はじめに  新井白石という近世日本の生んだ百科全書的な天才の実像に迫ろうとすると、どうしてもあの膨大な書簡を読みこなさなければならないが、将軍吉宗の登場以前、つまり政治家としての白石の活躍期や、それよりさらに前の若い頃の書簡は諸方に散逸して、まとめることがきわめて困難だ。また、全集第五の435頁ほど…
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