近世史私説

アクセスカウンタ

zoom RSS 田沼の経済政策を支えた男、石谷清昌 5

<<   作成日時 : 2007/10/09 22:39   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 石谷家と田沼家の密接なつながりについては、畏友の西尾忠久氏がブログ“『鬼平犯科帳』Who'sho”の217「石谷備後守清昌」の中で、
 「清昌の妻は意次の同母妹の義姉にあたる。また嫡子清定(きよさだ)の妻は意次の姪で、その直ぐの姉は田沼の養女という姻戚関係である。」
と紹介してくれている。これらはもちろん意次と清昌が壮年になってから生まれた関係ではあろうが、同じ紀州出身で似たような家柄ということが前提にあったことは考えられる。こうした一見些末に見える人物史の追求も、田沼と石谷との幕政上の結びつきを理解するには欠かせない。これを表面的にだけ史料を追っていくと、たとえば次に引用する山田忠雄氏のように、石谷やもう一人の紀州系勘定奉行の安藤(惟要)は勝手掛老中松平武元(たけちか)の政権下の勘定奉行だったとし、田沼が天明初年に実権を握った後は敬遠、排除されて、松本秀持や赤井忠晶に交替した、という誤った判断にもなる。しかしこの時の人事は、石谷は老年と病気によって、いったん留守居という高い地位の職に転じた後、退任を許されたと見てよいし、安藤は大目付への栄転である。勘定奉行20年は異例に長い任期であって、両人の役割を一応ここで区切りにしたとしてもふしぎはない。事実石谷は留守居職を辞して半月もたたないうちに死去している。この交替を敬遠とか排除とか見るのは強引すぎる解釈ではなかろうか。
 「石谷、安藤の両人はいずれも、かつて松平武元政権下の勘定奉行であった。かつ在役中は永年勝手方を担当して、幕府経済政策を推進した中心人物という経歴をもつ。しかもいわゆる紀州系幕臣という両人の出自は、田沼意次と同じ流れに属していた。しかし、いま田沼体制が幕閣の中枢をもまきこんでいこうとする段階において、田沼はその郷党的帰属意識にとらわれずに、石谷、安藤の二人を事実上、自分の政権内部から敬遠、排除したのである。」【山田忠雄「天明期幕政の新段階」有斐閣『講座日本近世史5 宝暦・天明期の政治と社会』22頁】
 この本は1988年刊だから、古い研究段階を反映していて、今の時点で批判するのは著者には失礼だが、松平武元の老中首座兼勝手掛老中という地位だけからその役割を過大評価する見方は、いまだに種々の史書に残っているし、田沼の経済政策の推進者を松本秀持で代表させる大石慎三郎氏の見解にも、共通の偏りが感じられる。
 実質的に田沼が幕政運営の中枢に座ったのはもっと早く宝暦郡上騒動の詮議と評決の時からで、このことを重要な史料の発掘によって立証したのは深井雅海氏だった。【『徳川将軍政治権力の研究』吉川弘文館1991年】 また田沼の政策推進の中核になったのが石谷であることも、深井氏が初めて具体的に史料をあげて指摘した。その詳細は、前に引いた西尾忠久氏のブログ中(219参考図書)にも紹介されている。それらに学びながら、田沼と石谷の大胆な政策展開を、石谷の経歴をたどりつつ、これからぼつぼつ見ていきたいと思う。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
田沼の経済政策を支えた男、石谷清昌 5 近世史私説/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる