テーマ:白石晩年の書簡

白石書簡テクスト補考 2

 『新井白石全集』第五収録の「新安手簡」は、巻頭の例言によると萩野由之蔵本を内閣文庫蔵上中下三巻本などで対校したとあるので、現在の国立公文書館の内閣文庫をデジタル閲覧したところ、昌平坂学問所旧蔵の本が内閣文庫にはいったもので、『白石叢書』と題するものの一部であることがわかった。明らかに後世の写本だが、書簡の並べ方が同志社本とは全く違う上…
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白石書簡テクスト補考

 白石晩年の書簡の収録テクスト(諸本)の遺存状況については、森原章、荒川久寿男両氏の論稿が最も正確だが、オリジナルの原本は国立東京博物館の資料館収蔵の「新復手簡」(小瀬復庵宛)が唯一まとまったものとして知られていた。* その後白石書簡中もっとも数量が多く、かつ内容も豊富な「新佐手簡」(佐久間洞巌宛)の原本が仙台の伊達家から仙台市図…
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白石晩年の書簡 56

 さて、次の復庵宛の手紙は同年7月十七日付である。 「仰せ下され候如くに、新涼凌暑を一洗し幸甚の事にて、御眠食の勝常なることはもっとも遐想を慰め候。老拙ごときも病骨やや爽かに覚え候。移居の事も廿日後にこれあるべく候。 先以て御家称の事、今度尊命によられ御復号の由(小瀬姓の復活を指す)御報知、奉賀に堪へず候。尊高祖(甫庵のこと)の御事…
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白石晩年の書簡 520

 野牛村(やぎゅうむら)は一村が白石の知行所で、石高は五百石だった。白石の知行千石のうち、残りは相模などに分かれて散在していた。洞巌宛書簡にも時折野牛の知行所のことは登場している。上記新聞記事に旧名主の家とあるのは大久保家で、ここから新井家の用人の大久保岡右衛門が出ていたことにはどの新聞もふれていない。白石が野牛を訪れたことがあったかど…
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白石晩年の書簡 519

 最近、白石の書軸が関東の白岡町の旧家で発見されたというニュースを、いくつかの新聞が取り上げて報じた。この程度のことがそんなに話題になるのかと意外な感もするが、白石への関心の高さを示す材料の一つではあろう。以下毎日新聞記事によって概略を紹介する。  「江戸時代中期の政治家で儒学者として名高い新井白石(1657~1725年)直筆の漢…
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白石晩年の書簡 518

 澹泊宛書簡では、外にも取り上げそこなったものがある。本ブログ449および450で、澹泊の『湖亭渉筆』を読んでの所感を述べたものを紹介したが、それに対する澹泊の返答があって、再び白石が答えた後便が存在する。ただ、全集本には二月四日の頭書がついていて、前便の頭書が辰二月九日なのと矛盾する。荒川研究によると、神宮文庫写本では三月四日となって…
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白石晩年の書簡 517

 「定めて彼(かの)類纂も未成にこそと存じ候処に、存生(ぞんしょう)の内に一千巻成就し候て、図説共にことごとく親書にて宰相殿(前田綱紀)へ上げられ候を、いかなる事にて当時御聞に達し(将軍吉宗の耳に入り)候か、御尋ねに付、去々年か宰相殿より右の一千巻若水手録のものもの献上めされ候ひき。兼て副本を御仕立おき候故に、その副本加州にはこれあり候…
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白石晩年の書簡 516

 澹泊宛書簡でもう一つ紹介したいのは、これも年次の決定はできないものだが、稲生若水との交友を回想する一文である。  「一 稲若水名義の事御尋ねに候。三十余年前西丸へいまだ入らせられず候内の事に候ひき。詩経進講の時に子細候て草木鳥獣図、なり候程は図し候て御目に懸け候事これある時に、平之丞(木下順庵)も存生にて助力に預り候。それにつき、知…
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白石晩年の書簡 515

 なお、朱記の部分は同志社大貴重書コレクションの立原翠軒筆写の事項別編集本「新安手簡」(ネットで公開)による補正だが、白石の最晩年に近い時期の自称が「老拙」から「老朽」に代っているのを正しく写しているのは、このテクストに信頼がおける一例である。また、原本に忠実に写す方針は、筆写に際しての誤脱に翠軒自らの朱筆で一字一句正確に訂正を入れてい…
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白石晩年の書簡 514

        補遺  安積澹泊宛書簡で、年次不詳ではあるが、内容を逸するのが惜しいものがあるので、取り上げておきたい。 次の書簡は最晩年に近い年次と思われるが、確定はできないので、年次不詳としておく。  「一 二三日以前、近所の学文このまれ候歴々、物語に申され候は、当所に京の伊藤(東涯)の門弟居られ候。その人ある人の碣銘を撰…
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白石晩年の書簡 513

                      あとがき  五年以上かかって、ようやく晩年の白石書簡を一通り見ることができた。まだ年次不詳のものがかなりの分量あって、それらは大部分除外したし、特殊な内容で、専門の学者ではない一般教養人や学生を対象として頭に置いたこのブログでは、読む興味が起りそうもないものはカットした。もっと詳しくそれ…
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白石晩年の書簡 512

 文中の「両絶」というのはあまり使われない奇異な熟語だが、文脈で意味は見当がつく。「東西声音」のこととは、序文でインド・中国・日本の文字と音韻のありかたが違うことを述べた上、白石が日本の古語について文字と音韻の両方によく通じた解を加えた点を誉めて、「これを華(中国)梵(インド)を兼ぬと謂ふと雖も、また可なり。」としたことを指す。そうし…
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白石晩年の書簡 511

 白石はこの年の五月十九日に歿するのだが、病中でも自著の序文を依頼したり、或は病を押して改定の作業をしたりしていた様子が、安積澹泊宛のこの頃の書簡などでわかる。  「一 東雅御序両絶のものにて、秘蔵此事忝き次第と存じ奉り候。御序の中に東西声音の事仰せられ候に付、ふと存じつき昔仕りおき候もの御座候。勿論つたなきものに候。御大手を労し候は…
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白石晩年の書簡 510

 現在読むことのできる洞巌宛の最後の書簡は次のような短いものだ。 「本月六日高橋殿御暇乞の為に御入来、二月中両封の御報御伝達、拝誦、御平善の御便承知、欣然の事に候。此方異事無く、老朽一家無事に罷在り候。  一 前に仰せを蒙り候御事跡の事、其節も申入れ候ごとく、老朽精力耗尽(こうじん すっかり衰える)につきて、新川丈(土肥元成)へ委託…
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白石晩年の書簡 509

 前後するが、原本と全集本ともに二月十五日付書簡の次に収めている副書らしき書簡がある。森原氏もその内容から十五日付書簡の副書としている。ただ、原本を観察すると、走り書きのように大きめの字で無造作に書いたらしい十五日付書簡よりも字はかなり小さく、また書き方は少しゆっくりで丁寧な感じがする。或はこの副書の部分だけは火事よりも前に書いてあった…
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白石晩年の書簡 508

 ところで、この時の大火については『徳川実紀』第八篇にも記載があるが、編纂物である『実紀』よりも確実な同時代の史料として、水戸藩士西野正府が録した『享保日記』によると、  「享保十乙巳二月十四日、江府(江戸)に火有り。浅より南風烈しくこれ有る処、昼八つ時(午後二時)より青山辺より失火。四谷の方へ段々焼け来り、尾州様御上屋敷五段長や(五…
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白石晩年の書簡 507

 この手紙の日付が全集本では二月二十五日になっていることは前述のとおりだが、多分底本となった写本の誤記によるものだろう。これでは本文の内容と矛盾するので、森原章氏は、全集本の配列で享保六年頃のものの間に置かれている二月十六日付書簡が共通の火事の記述を含むと考え、両書簡の半分ずつが継ぎちがえられたという仮説をたてた。その書簡は次のようなも…
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白石晩年の書簡 506

 「夜の六つ(午後六時頃)過ぎ迄わづかに三時のうち、青山よりして東北のいなか迄、四谷牛込の外郭を限り、其外はことごとく灰燼となり、尾張どの忽ちに御やけ、水戸も半分御やけ、伝通院又々やけ、家もなにもなき所にてやけ止り候。惣じて当代(吉宗の治世)は御城の外は御やきすての場との御定めにて、定火消は御城内にばかりさしをかれ候故に、年々此の如くに…
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白石晩年の書簡 505

 「一 右の火不思議に左右前後のこらず灰燼し候に、私妹(娘)屋敷ばかり少しもやけ候はず安全、よほど不思議の事に候。さてそれより今一人の妹(娘)の方風下に候所にこれもまぬかれ候て、まづ今日迄は一族無事に候。  然りと雖も当時の風気(気候)明日は恃まれぬ事に候。そもそも去冬はつゐにこれなく和暖にて、庭前梅椿等のもの大かたに咲出し、上総筋に…
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白石晩年の書簡 504

 正月の参賀と年礼の無理がたたって、白石はずっと病床を離れることができなかったようだ。ところがそんな時に、二月十四日の夕方に原宿あたりから出火し、青山一帯から市ヶ谷、小石川を経て谷中に至る広い範囲に及ぶ大火となった。新井家のある内藤宿あたりは無事だったが、娘たちの家族が避難して来て大混雑となり、寝ているどころではなくなってしまった。この…
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白石晩年の書簡 503

 仙台藩士の八嶋彦八はこの頃白石と洞巌の通信のなかだちをしていた人物だが、国元へ帰って洞巌に新井家の模様を話した時に、敷地の手狭なことや、建物の簡素な様子、或は暮らしぶりの控えめなことを報告したものと見えて、白石の退任後の家計が不如意なのではないかと洞巌が心配したらしい。白石は「わづかに千石の禄」というが、旗本としては中の上で、かなりの…
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白石晩年の書簡 502

 次の二条は洞巌から『続離騒』『詩経広大全』の二書の渡来の有無を尋ねてきたのに対する返答で、そのついでに、近年経書の注解等を集成した全書などができているが、物足りないものが多い、という不満を述べている。その部分の引用は省くが、その最後に「とかくつよく書をよみ候て、深く心を用ひ候に過ぐべからずやと存じ候。惣じて今の学者衆は一言以て蔽ひ候は…
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白石晩年の書簡 501

 「昔詩書進講(家宣への詩経書経の進講)の時に、なにとぞ詩はこなた(本邦)の歌のてにをはのやうにと心づき候て、それよりして万葉集の学にこヽろざしたる事に候。間々にはいかにも読かなへられ候所も候へども、右申すごとくあなたとこなたと本来の趣き大きにちがひ候へば、牽強付会しがたく候。惣じてこなたのことばにタリと申すてにをはを、万葉にはことごと…
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白石晩年の書簡 500

 さて、右の書簡には長い副書が付いている。全集本ではこの副書が本状の直前に置かれているので、一見別の書簡のようだが、本状に「去冬之御答共は別紙に呈し候」とあり、副書の冒頭に「十二月十九日の御答」とあるので、こちらがその別紙であることは明らかだ。  前半の七条には、洞巌の新居の詩のこと、鬼神に関する孔子の遺語や中国の古詩についての質問に…
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白石晩年の書簡 499

 初めの方に野鶴を贈られたのに対する謝辞がある。この時代に鶴が特別な御馳走と考えられていたことを示す史料は多い。【江原恵『江戸料理史考』河出書房新社一九八六年】 実際に食べて美味だったかは疑問で、独特の臭気があったらしく、多分にステイタス・シンボルの意味があったのだろう。  前年に引き続いて、白石は正月の参賀に出仕できるかどうか危ぶま…
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白石晩年の書簡 498

 さて、あまり健康のすぐれない状態で一年を過ごしていた白石は、このあとしばらく便りをしなかったのか、翌享保十年の正月十七日付の便まで約四か月の空白期間がある。なお、これには副書がついているが、まず本書状を少し長いけれども一括して引いておこう。  「新春慶事尽期あるべからず候。当○○(不明)は御新居に於て御迎陽と珍重之御事に候。去冬之御…
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白石晩年の書簡 497

 次の二条は神道史関係の語句についての答、また更に二条は美人草の種子の礼や洞巌から仙台辺の文人たちの詩の批評を請われたのに対する返答などで、これらは省略する。  「一 御移徙(いし 転居)の作進じ候べくよし、久々さやうの事にうとく罷成り、心得候と御答に及びがたく候。其外仰せ下され候事共。右申し候手前のいそがしさ、少しも余暇出来候はゞ、…
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白石晩年の書簡 496

 次の条では、洞巌が仏教の影響から脱するのに苦労したことを書いてきたのに対し、自分のこの問題についての考えを簡潔に記している。  「一 御書付を見候へば、仏を御のがれ候に事の外御力を用ひられ候事と見え候。老拙とても仏氏よき事とは存ぜず候勿論に候へども、口に出し候てよしあし申し候事は仕りかね候事に候。此事侫仏阿世の事にはこれなく候。実理…
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白石晩年の書簡 495

 「一 三日夜中の御書中、これより申入れ候御答共一々承知、再答する能はず候。」  白石がこの書簡を書きだす前に、洞巌からの九月三日夜付の手紙が来たので、その内容も一々承知した上で書くから、もう一度改めて返書は出さない、と断っている。  「一 御書付委曲披見、たしかに領納候。かねても申入れ候ごとくに、ふと存じ寄り候て、史疑の事存じたち…
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白石晩年の書簡 494

 この年の秋になってから出した洞巌宛の白石の書簡がもう一通ある。  「八月三日・廿五日之両封相達し、御病後弥(いよいよ)打つゞき御快然之由、珍重之至、まづは万事之根本に候へば、せっかく御保嗇(ほしょく 慎重に保つこと)に。これに過ぐべからず候。 さては御移居候事、千万きのどくに候。老拙事火にも遇ひ、またはよき事につき、よからぬ事につ…
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